第1回須賀敦子の経歴と作品について第2回『ヴェネツィアの宿』より「白い方丈」第3回『どんぐりのたわごと』第4回『コルシア書店の仲間たち』第5回イタリアの文学作品について
第1回須賀敦子の経歴と作品について
 小説から古典へと続いて、いよいよ今回からエッセイの読み方を学んでいきます。
 エッセイとは随筆または随想ともいわれ、自由な形式に従って、自らの意見や感想などを文章にまとめたものです。そこには著者の考えが大きく反映され、その視点から多くのものを学ぶことができます。まさに、エッセイは著者の人となりがそのまま伺えるジャンルといっても決して過言ではないでしょう。
 これまでは、最初から作品を掘り下げることをテーマとしてきましたが、このエッセイ編では、まず著者の経歴を通して、著者の人となりについて簡単に触れ、次に作品へと進めることにします。そこで是非取り上げてみるのが、須賀敦子というエッセイストです。
 今回は須賀敦子の経歴と作品について、さらに次回以降の予告として、彼女の数多い作品の中から、いくつかのエッセイついて、学んでみることにしたいと思います。
@須賀敦子の経歴
1929年 兵庫県に生まれる
1947年 カトリックにて受洗
1951年 聖心女子大学外国学部英語・英文科卒業
1952年 慶應義塾大学大学院社会学研究科入学
1953年 大学院を中退し、パリ大学留学
1955年 帰国
1958年 イタリア留学
      (その後キリスト教関係の翻訳の仕事にも従事するようになる)
1961年 イタリア人であるペッピーノと結婚
      (1967年に夫は急死)
1989年 上智大学比較文化学部教授に就任
      (以後、精力的にエッセイや翻訳を発表する)
1991年 エッセイ『ミラノ 霧の風景』で文学賞受賞
1998年 死去

A須賀敦子の作品(発表時期並びに初出は省略)
『ミラノ 霧の風景』『コルシア書店の仲間たち』『旅のあいまに』『ヴェネツィアの宿』『トリエステの坂道』『時のかけらたち』『地図のない道』『遠い棚の本たち』『本に読まれて』など
また、イタリア文学の翻訳についても発表 ウンベルト・サバ(詩人)やアントニオ・タブッキ(作家)の作品など
日本の文学作品のイタリア語翻訳も発表
※日本とイタリアの文学を通して、文化の架け橋としての役割担った功績は大変大きい
第2回『ヴェネツィアの宿』より「白い方丈」
 前回は須賀敦子の経歴と作品について、さらに彼女の数多い作品の中から、いくつかの作品を紹介しました。今回は、それらの中から、『ヴェネツィアの宿』という作品に焦点を当て、なかでも所収の「白い方丈」というエッセイを紹介したいと思います。
 所収のこのエッセイは、須賀敦子から見た日本人のものの考え方やその行動が、極めてわかりやすい形で綴られているもののひとつです。そこには、日本人須賀敦子ではない、むしろイタリア人的視点での描写で、決して嫌味ではなく、興味深くしかも丁寧に表現されているのが特徴です。以下、須賀敦子全集第2巻並びに第8巻(河出文庫)を参考にしています。

@『ヴェネツィアの宿』
1993年10月文藝春秋より刊行
 少女時代の記憶を辿ったものや、イタリア留学時代の思い出を綴ったエッセイなどを所収
※所収の「白い方丈」は1993年4月『古い地図帳G 白い方丈』として「文學界」に発

A「白い方丈」
 見知らぬ女性からの突然の手紙。そこには、「日本に帰国の折には是非お会いしたい」という旨の内容が綴られていた。その後、須賀敦子はその女性の自宅にて初めて対面をする。女性の名前は竹野よし子という。
 竹野曰く、「知人の高名な禅僧がミラノに招待をされた。自分たちを招待をしたのは、ティルデ・ドネリというイタリア人女性。もしや、貴方様とお知り合いではあるまいか」
 須賀敦子はそのイタリア人女性を知っていた。一筋縄ではいかないその女性の人柄も含めて、相当に日本に傾倒していることなどもよく知っていた。さらに、当時のイタリア社会の状況を踏まえても、竹野の話には釈然としないものを感じていた。しかし、すっかりその気でいる竹野と禅僧には、自らの見解を伝えることはしなかった。
 それからしばらくして、須賀のもとに竹野から手紙が届く。須賀の直感は的中していた。しかし、手紙からはまだティルデからの連絡を待ち続けている竹野の様子が伺えた。
 さらに、須賀の夫が急死してすぐのこと。帰国していた須賀のもとに、竹野から電話が入る。お悔やみを述べようとした竹野に、家人ではなく須賀本人が電話に出ていることを伝える。そこで突然、電話は切れた。

Bアプローチ
 興味深いのは、竹野という女性と禅僧の日本人的発想です。根拠のない話を待ち続けるところもそうですが、物事をひたすら情緒的にとらえようとする傾向は、具体性と合理性を重んじる考え方とは異なるところだといえます。
 一方、具体的でもなく、合理性にも欠ける話題について、冷静に捉えようとする須賀敦子の視点は、極めてユニークにも感じられます。イタリアを肌で感じた彼女の感性は、日本人という枠を超えた新たな視点をもたらせたのでしょう。
 視点だけではなく、行動にも注目すべきところがあります。自らの見解をもって、相手を説得することはせず、何かを察知したかのように、自己中心的な意味でのポジティブな状態にいる相手からさっと身を引く潔さは、日本人的発想とは対極にあるものと受け止めることさえできます。
 最後、電話が切れる場面について、色々な想像ができます。具体的な見解は省かれていますが、皆さんはどのように想像されるでしょうか。

 エッセイにはいろいろな受け止め方があります。皆さんは何を感じたでしょうか。
 次回も、須賀敦子のエッセイをともに読んでいきたいと思います。
第3回『どんぐりのたわごと』という作品を紹介したいと思います。
 前回は、『ヴェネツィアの宿』という作品に所収されている「白い方丈」というエッセイを紹介しました。繰り返しになりますが、このエッセイは、イタリア人的視点から日本人のものの考え方やその行動を、わかりやすく自然体で綴ったもののひとつです。もちろん須賀敦子自身は日本人ですから、日本人としての視点からも並行して描かれていることは確かです。しかし、どちらの視点に比重を置くのかによって、作品のおもしろさは随分変わります。その意味では、日本人である須賀敦子が、あえてイタリア人的視点を持って日本人について綴ったこのエッセイは、無理を感じさせるものではなく、むしろほど良く自然体であると点においても、より興味を持たせるものだと言えるのではないでしょうか。
 さて、今回は初期のものとして、『どんぐりのたわごと』という作品を紹介したいと思います。実は、これは作品というかたちで出版されたものではなく、イタリアで須賀敦子と関わりの深かったコルシア書店より、1960年7月から1962年8月にかけて刊行された、須賀敦子自身による雑誌です。もちろん雑誌といっても、ただ思いつくままに書き綴ったというようなものではなく、イタリアのキリスト教関係者による文章や詩などを、丁寧に日本語に翻訳したものとなっています。
 今回も、須賀敦子全集(河出文庫)より、第7巻並びに第8巻を参考にしています。

@『どんぐりのたわごと』

1960年7月コルシア書店より第1号を刊行
1960年 8月第2号〜
その後、およそ毎月のペースで号を重ねる。
〜1962年8月第15号にて休刊
※日記によると、発行を続ける意志はあった。ただし、この頃は日本文学のイタリア語翻訳の仕事が多忙となる。

A『どんぐりのたわごと』の意義

 須賀敦子がカトリックの洗礼を受けたのは、1947年4月のこと、18歳の時です。そこから須賀敦子の信仰生活が始まります。
 ところで、須賀敦子にとって信仰とはどのようなものだったのでしょうか。実は、それを解く鍵が『どんぐりのたわごと』にあるものと思われます。時代に翻弄されながら、また変化する環境に適応しながら、異国との関係のなかで自らの生き方を模索していたなか、何より支えになったのが自らの信仰でした。
 須賀敦子にとって『どんぐりのたわごと』は、自らの信仰を再確認するとともに、自らの生き方を明確にしていく、いわば人生のあらゆる可能性と方向性に関わるなかでの意義あるものでした。それらは決して思い付きではなく、あらゆる思いをこの刊行に混在させようとしたに違いありません。内容からはこのことを十分にうかがい知ることができます。

 『どんぐりのたわごと』は須賀敦子全集7巻に所収されています。凛としていて手際よい彼女の文章を是非お楽しみください。

 次回は、須賀敦子とゆかりのある、コルシア書店について書かれたエッセイを読んでいきたいと思います。
第4回『コルシア書店の仲間たち』という作品を紹介したいと思います。
 日本人である須賀敦子が、伸びやかな筆力で描いた数々のエッセイ。そこには、異国の人たちの息遣いというものが見事に表現されていると同時に、彼女の無理のない極めて自然体な視点と姿勢を十分に読み取ることができます。
 さて、今回は『コルシア書店の仲間たち』という作品を紹介したいと思います。須賀敦子にとってひとつの拠り所でもあったコルシア書店。そこは私たちが一般に知っている書店とは異なる場所であることがわかります。
 今回も、須賀敦子全集(河出文庫)より、第7巻並びに第8巻を参考にしています。

@『コルシア書店の仲間たち』

 1992年4月文藝春秋より刊行
 全編書き下ろしによる
 コルシア書店に関わる人たちについて、またその周囲の人間関係について、細やかな描写で綴られている。

Aコルシア書店について

 正式な名称は、コルシア・デイ・セルヴィ書店といい、ミラノにあったセルヴィ修道院の一部を借り受けて始めたところに由来しています。またコルシア書店の発起人となったのは、司祭であり詩人でもあったダヴィデ・マリア・トゥロルドと数人の若者たちでした。
須賀敦子がこの書店に強く魅かれたのは、そこが単に書籍の販売だけを目的とする場ではなかったということです。コルシア書店には実に多くの人たちが出入りを繰り返していました。そして、そこは出版の場でもあり、議論の場でもあり、キリスト教という狭い枠に決してこだわらないとする活動の拠点でもありました。日本という枠を飛び出した須賀敦子というひとりの日本人女性。枠にこだわらない生き方を模索していたであろう当時の彼女にとって、コルシア書店はまさしくふさわしい場所だったといえるのかもしれません。
 もうひとつ、須賀敦子にとってコルシア書店は後に伴侶となるペッピーノとの出会いの場所でもありました。書店を取り仕切っていたペッピーノと須賀敦子との運命の出会い。結婚。新婚生活。そして突然の夫の死。
亡くなった夫の遺骸が土地の慣習に従い、教会に運ばれたその翌朝についての箇所では、その死が現実であり、決して夢ではないことを思い知らされたとする記述があります。夫の死を受容せざるを得ない辛さ苦しさ、それらが文脈全体に溢れ出ているのがわかります。

 『コルシア書店の仲間たち』は須賀敦子全集1巻に所収されています。決して押し付けがましくない文章、そこに見られる人間への深い眼差し、厳しさと優しさの見事な調和、それらに是非触れてもらいたいと思います。

 次回は、須賀敦子が関わったイタリアの文学作品について見ていくことにしましょう。
第5回イタリアの文学作品について。
  精緻な筆法で数々のエッセイを書き記した須賀敦子ですが、一方でイタリア文学の翻訳に精力的に取り組んだことでも知られています。散文ではナタリア・ギンズブルグやアントニオ・タブッキ、また詩歌ではウンベルト・サーバなど、その見事な翻訳は名訳として、現在において高い評価を得続けています。

@主な散文の翻訳
・ナタリア・ギンズブルグについて
  「ある家族の会話」
  「マンゾーニ家の人々」
  「モンテ・フェルモの丘の家」
・アントニオ・タブッキについて
  「インド夜想曲」
  「遠い水平線」
  「逆さまゲーム」
  「供述によるとペレイラは」
  「島とクジラと女をめぐる断片」

A主な詩歌の翻訳
「ウンベルト・サーバ詩集」
ナタリア・ギンズブルグ(1916〜1991)
 小説家 シチリアパレルモ出身
アントニオ・タブッキ(1943〜2012)
 小説家 翻訳家 学者 ピサ出身
ウンベルト・サーバ(1883〜1957)
 詩人 トリエステ出身

 また、それら翻訳に留まらず、「イタリア文学論」として、作家やその作品についての論文も多くあります。なかでも、「中世詩論」や「現在詩論」は、極めて完成度の高い内容となっており、須賀敦子のイタリア文学に対する憧憬の深さをうかがい知ることができます。
 日本とイタリアの、文学における架け橋となった須賀敦子。その作品は今後もより多くの人たちに読み継がれていくことでしょう。
 今回も、須賀敦子全集(河出文庫)より、第6巻を参考にしています。