第57回
「柳原白蓮」
 柳原白蓮といえば、スキャダラスなイメージが先行するようですが、れっきとした名歌人です。もはや美人薄命ではなく、美人強し。いや、浅薄極まりないことを書いてはいけません。柳原白蓮についての良書を紹介します。
井上洋子『西日本人物誌20 柳原白蓮』西日本新聞社 2011年
柳原白蓮『ことたま 柳原白蓮エッセイ集』河出書房新社 2015年
 いずれも、古書にて入手可能です。晩秋去って、「読書の初冬?」に、いかがでしょうか。
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第56回
「お忙氏」
 実に猫も杓子もです。公共交通機関のみならず、歩きながら、食事しながら、まるでスマホが身体の一部であるかのような光景は、ゆとりの欠片もない凄まじさを感じさせます。
 世の中が便利になることはとても良いことです。しかし、たかが機械、されど機械です。それにより、思考が吹っ飛んでしまうとすれば、愉快を超え、恐怖の域に達する事柄です。
 便利なことが、結果的に人間を忙しくする。「お忙氏」人々とは、距離を置きたいものです。
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第55回
「育ち」
 飲食店での悪戯が度々取り上げられています。劣悪な環境での養育が祟ったのでしょう。もはや改善の余地なし、救いようもありません。実は一昨年のこと、職場エレベーターでの「各階各駅停車」という超悪戯が発生、犯人は有名私立大学連携校の男子中学生ふたり。ところが、偽名を名乗るは、偽校を口にするはで、通報で駆け付けた警察官も呆れる始末。彼らの不法行為を通して、受け継いだその遺伝子はもちろんのこと、家庭内での躾等、普段の養育の大切さを改めて思わされた次第です。人間は真似る生き物です。きっと、先の飲食店での悪戯も含め、大人を愚弄するそれら所作は、彼等に近しい連中、取り巻きを含め、同質かつ同等であること間違いありません。劣化した日本人に、癖壁するこの頃です。
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第54回
「雑談」
 「授業中の雑談は絶対に止めて下さい。」そんな厳命を教員に行う学校があると聞きます。何と愚かで、何と滑稽なお触れでしょう。正当な雑談は、猥談とは一線を画すものです。そこには教員の人となり、いわば人生観や人間観が見事に露呈され、表現されていきます。もちろん教員も人です。よって、人生観や人間観など微塵も持たない、伝えるロボットのような、実に空虚な者もいるにはいます。そんな、AI化された教員と接点を持たざるを得ない生徒は、何と不幸なことでしょう。全くもって、これからの日本を憂うばかりです。
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第53回
「日本語を学びましょう」
 言葉は単なる伝達の手段ではありません。それを発するタイミング、またそこでの表現の在り方など、言葉は人間関係を良好にする一方、修復不可能な事態をもたらすことさえあります。特に組織において、上層部による言葉は、大きな責任を伴います。「〜つもりはなかった」はもちろん、謝罪や取り消しなど効くはずもありません。人の上に立とうとするならば、マネジメントの前に日本語を勉強すべきでしょう。本も読まない、新聞も読まない、多忙にかまけて、そうした時間をも創造できない、このような人物は、上層部からの早急なる退陣が賢明なのではないでしょうか。
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第52回
「ロビンソン・クルーソー」
 ダニエル・デフォーといえば、最近では「ペスト」が話題となっていますが、個人的な見解としては、「ロビンソン・クルーソー」に優る作品はないものと思います。想像力を掻き立てる不思議な世界、冒険物の全てを集約させたかのような名作中の名作が「ロビンソン・クルーソー」だといっても過言ではないでしょう。人間の思惑と神の思惑、人間の弱さと強さ、そういったものが上手くまぶされた作品、こういうことを書いていると、またまた無性に読みたくなってくるのは、「ロビンソン・クルーソー」に、もはやすっかりとりつかれてしまっているからかもしれません。
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第51回
「星の王子様」
 誰もが知るところの、名作中の名作を、久しぶりに読んでみました。文学は全てが「童話」を拠り所とするというのは、少々言い過ぎかもしれませんが。童話は決して子ども向けの文学ではなく、実は大人向けに書かれたものではないかと思うことがあります。人間とは、人生とは、生きるとは、そして、自分とは・・・。作品を通して、諭されていく。心地良い思索は、自分自身の胸にもう一度手を当ててみる、よい機会なのかもしれません。
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第50回
「変身」
 東野圭吾を初めて読みました。なるほど、ストーリーにはリズムがあり、余計な拘りは省かれています。ここはテレビドラマや映画の世界などを強く意識してのことでしょうか。
 勧められるまま触れた新しい世界でしたが、そうした出会いもまた実に心地良いものです。書籍との新たな出会いは人との出会いにどこか似ている。そんな気がしてなりません。
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第49回
「モモ」
 久しぶりに、ミヒャエル・エンデの『モモ』を読みました。そして、改めてモモという少女から思索することの必要を学びました。
 現代人は思索を忘れ、ただただ便利さに埋没しているのではないでしょうか。便利になったのに、忙しいのはなぜでしょう。現代人がすっぽりとはまり込んでしまった仕掛け。モモはそのことに対して警告を発しているのではないか。そんな気がしてなりません。
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第48回
「脅威と怪異」
 兵庫県立歴史博物館
 白鷺城の裏手にある歴史博物館。周囲の完成さと館内の静寂さに比して、モンスターたちは実に活き活きしていました。とにかく、人間の創造の威力は凄まじいの一言に尽きます。まるで人間に寄り添うように存在するモンスターたち。脅威も怪異も人間にある意味での抑止を与えてくれていたような気がします。そうした存在によって、人間は自制することを覚えてきたのでしょう。現代人にとって、脅威と怪異はもはや単なる架空のものなのかもしれません。まさに怖いものなし。それは逆に人間を朽ちさせはしないでしょうか。
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第47回
「寄生虫教師」
 教師のいじめが話題となりました。なるほど、だから生徒のいじめもなくならない。これは実に完全なる等式のお目見えです。
 毎年毎年同じことを繰り返し、失敗してもお咎めなし。組織にどっぷりつかった給料泥棒は大変困りものです。専門性もない。指導力もない。でも先生でいられる。こうした不思議な世界の被害者は、やはり生徒ということになります。部活が忙しいとか、超過勤務がどうこうだとか、はっきりいって眉唾ものです。部活が忙しいのは部活に逃避した結果の賜物、超過勤務はただの要領の悪さ、それでいてちゃんとうつ病だけは避けないでいる。
 更に言いましょう。民間企業で勤まらない連中が、学校には多く生息しています。それでも先生には変わりがない。寄生虫教師はこうして末永く学校で生き続けるのでしょう。
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第46回
「ラテンアメリカ怪談集」
 怪談といえば、日本ではやはりあの「恨めしや〜」が定番です。ただし、ラテンアメリカではその様相ががらりと変わって、とても不思議で幻想的な世界観が醸されています。
「ラテンアメリカ怪談集」は遥か海を越えた土地で創作された短編集を集めたものですが、予想以上にラテンの香り包まれ、何とも独特の風土を感じさせてくれるものばかりです。
 外国文学には当該地域の独特の風土がどこからともなく漂ってきます。それが実に心地良く、思わず身を委ねてしまいます。だから、怪談集といってもまた日本のそれと大きく差異を感じるのは当然のことといえます。
 ラテンの香りに包まれる。読書を通して新たな幻想と出会う。そして新たな幽霊とも・・・。
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第45回
「探偵小説」
    探偵小説といえば、日本では江戸川乱歩や横溝正史がよく知られています。一方で、浜尾四郎や甲賀三郎は、今や探偵小説全集でお目に掛かるだけですが、両人とも玄人受けする作品が並びます。  探偵小説の魅力は何といっても事件に係わる人間の表と裏の見事な描写にあると思います。事件という非日常、それに出くわした人間の本性がそこに現れる。もちろん事件解決の道程も読み手を引き込んで離しません。小説ならではのトリックにチャレンジするのもいいかもしれません。
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第44回
「勇気と男気」
    勇気や男気という言葉を度々耳にします。口当たりも良く、聞こえも良いことが、その要因なのでしょう。特に勇気については、昨年の日大アメフト部の反則タックルの一件で、反則を行った選手が開いた例の記者会見の際の賛美として用いられたことは、まだ記憶に新しいものがあります。もちろん、もし彼に本当の勇気があったなら、反則の指示には決して従わなかったはずです。何とも安っぽい勇気とやらがここにもまた見られた訳です。
   勇気という言葉は、或いは男気という言葉は軽いものではありません。それを簡単に用いる人間の能力もまた、それぞれの局面において露呈されることになります。言葉についての考察の材料は事欠くことなどないのです。
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第43回
「甘い罠」
    昨今、少子化に伴い、各大学の募集は熾烈を極めています。有名私立大学の系列校やパイロット校は、高大連携の名の下に、碌に勉強しない、目先の小テスト等やそのやり直しに明け暮れる生徒を次から次へと、無試験によって大学へと送り込んでいるのが実態です。
 作業を勉強だと取り違えた生徒が、いくら有名私立大学に入学したところで、その行く末は悲惨なものです。思考力も創造力もまるでゼロ、スマホいじりだけは得意なようです。
 高大連携など実に甘い罠でしかありません。また、毎年毎年同じような作業を生徒に課す程度の指導しかできないマンネリ教師の下では、真の学力も身に付くはずはありません。
 厳しい受験勉強をくぐり抜けた生徒、片や目先の平常点に目が眩んだ生徒、大学入学後の差は歴然とするのは当然です。企業も採用の際にはその点に注目しているのが現実です。
 やるべき時にやるべきことをきちんとやる。熾烈な競争だからこそ、合格という栄冠に付加価値が生まれるのです。甘い罠には用心を。受験勉強から逃げてはいけないのです。
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第42回
「美術館でのマナー」
    美術館はただ鑑賞する場ではありません。心に栄養を補給する場です。鑑賞を通して真摯に自分と向き合う場です。ところが昨今はマナーの悪いご老人たちの、お喋りと足腰の鍛錬の場になってしまっている感があります。そういう老人は「老害」と蔑まれても致し方ない。まともな鑑賞者からすれば、そうした「老害」の存在は甚だ迷惑な話なのです。
 一方で、「人の振り見て我が振り直せ」のことわざの通り、人生の先輩の醜態を目の当たりにして、ああいう年のとり方はいけないと肝に銘じるのも、ものの受け止め方でしょう。
 お手本は結構身近なところにある。机の上だけが勉強の場ではない。そう強く感じます。
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第41回
「食生活」
    食は生活の基本です。食べる物によって身体は造られます。四季と自然。これらに応じた素材を、感謝をもって調理し、それから頂く。何と素晴らしいことでしょう。
 文学作品の中にも実に多くの食材が登場します。例えば、「火宅の人」で知られる壇一雄は自ら料理もこなす食通でした。ただ空腹を満たす行為が食ではない。素材に対する愛着と、創造性と、四季と自然への敬愛が、作品の中に見事に表現されています。
 食から文学を覗く。そこには新たな発見がきっとあるに違いありません。
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第40回
「舞台巡り」
    小説を読み進めていく際に、そこに臨場感を生み出す方法として、舞台となった場所へ出掛けてみるのも良いでしょう。
 例えば、三島由紀夫であれば、憂国忌に参加することでその思想や信条に触れ、その人物像にも近づくことができます。また、『豊饒の海』の最後の場面に登場する奈良の月修寺のモデルとなった円照寺に出向くことで、そこにある荘厳な雰囲気に直に触れ、再読の際には想像の域を遥かに越えた現実感を持つこともできます。
 古事記や日本書紀などの神話の世界も、それにまつわる土地を訪れることで、内容をより身近に捉えることができるようになります。
 読書は知識だけでなく、行動にも幅を与えてくれます。新たな世界との出会いを求めてみてはいかがでしょうか。
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第39回
「私たちが招く日本の未来」
    これは総務省と文科省が新しく有権者となった高校生に配布した冊子です。内容は確かに興味深いのですが、やはり建前は本音を凌駕しないということを逆に思わされるものでもあります。
 ここで考えてみたいのは、良い有権者とは何かということです。持論として、良い有権者は良い納税者でなければならないと考えます。負担した税に敏感であることは、行政にも敏感であることを意味します。納税も投票も国民にとっては極めて重要なことで、さらに重要なのは、それらがどう機能しているのかを見極める能力を磨くことだと思います。
 有権者は納税者でもある。優良な有権者は優良な納税者になるための訓練を必要とします。スマホ片手にイヤホンでは訓練にはなりません。考えること。知恵はそうやって磨かれるのだと思います。
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第38回
「掘り出し物」
    図書館はまさに知識の宝箱です。時々調べ物があってカンファレンスをお願いすることがあります。そのお蔭で貴重な資料との出会いもあります。予約している本や資料以外にも、その時の嗜好に合わせて館内を散策することにより、意外な掘り出し物との出会いもまた格別です。
 つい最近の掘り出し物のひとつに「浜尾四郎集」があります。浜尾四郎といえば古川緑波の実兄であり、カトリック浜尾四郎枢機卿の父でもあります。元検事で元弁護士、元貴族院議員で小説家でもあった浜尾四郎。何やら堅いイメージを持ちがちな経歴ですが、作風は決してそうではありません。それはまさしく法律的探偵小説、上手くて、巧くて、そして飽きさせない。素晴らしいの一言に尽きます。
 次回の返却時、今度はどんな掘り出し物に出会えるか。そして浜尾四郎の次は、一体何が新たにお気に入りに加わるか。図書館は人をワクワクさせる魅力ある場所でもあるのです。
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第37回
「挨拶をすること」
   挨拶は生活の基本です。基本が揺らぐと生活も揺らいでしまいます。そうした挨拶が、隣近所や職場から消えて無くなろうとしています。
 隣は何をする人ぞ。
 挨拶は他人のプライバシーを暴くために交わすのではありません。挨拶を交わすことは最低限のお付き合いであり、人間関係における礼儀です。挨拶をしても返さない。スマホの画面に見入ったまま。これでは相手の人間性を疑ってしまいます。
 驚くことに、学校の先生同士でもめっきり挨拶を交わさなくなったといいます。むしろ生徒の方がきちんと挨拶できる。これは時代の流れなどはありません。そうした低い人間性の先生たちがいったい子どもたちに何を示せるというのでしょう。昨今のモンスターペアレントの出現についてはむしろ学校にも問題の一端があるのではないでしょうか。
 低レベルの絆ぞ。
 もう一度言います。挨拶は生活の基本です。挨拶ができない人は基本ができていない人。基本を教えられなかった人。やっぱり育ちは尾を引くのです。
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第36回
「スリルな公共交通機関」
 公共交通機関を利用していて、最近気になることがあります。それは乗務員同士の私語です。運転手や車掌同士が、或いは駅員同士が、構内に響きわたるくらいの声で言葉を交わし合う。しかも出発時刻になってもまだ止まない。乗客の安全より優先する話題があるのではと思わせる程の奇妙な光景です。もちろん彼ら彼女らは鉄道マニアやバスマニアではありません。間違いなくプロ中のプロのはずです。ところがそれを感じさせない光景には、少々うんざりさせられてしまいます。
 実際に、車掌が扉を閉め忘れる、オーバーランで停車するはずの駅を通過するなどなど、初歩的なミスも目立って起こっているようです。外国のアナウンスや、時にテロ対策と称してゴミ箱を封鎖するなど、そうしたパフォーマンスも大切ですが、最も必要なのは乗務員のプロ意識と高いモラルではないでしょうか。
 スリルな公共交通は必要ありません。乗客の大切な命を預かる。まさしくこのことを肝に銘じて職務に当たってもらいたいものです。
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第35回
「日本死ね」
 保育園にもれた母親が憤りとともにブログに書き付けたこのフレーズが随分話題になりました。一方で、「死ね」というあからさまな文句に違和感を覚えた人も多かったと聞きます。実は私もそのひとりです。表現の自由を遥かに通り越した、それはまさに「醜悪の表現」。言うべきこと、書くべきことを一切咀嚼しない放漫さ。そしてそれをあたかも賞賛し賛美するかのように過大評価する社会の姿。これは一体何なのでしょう。
 私は日本人です。日本で生まれ、日本で育ち、日本で生きています。その意味で「日本死ね」は私を含めた多くの日本人への侮辱の言葉でもあります。現状の保育制度を理路整然と批判するのならまだしも、そうした言葉を持ち合わせていないかのような稚拙な表現。この方は、自分のご主人や子どもに「死ね」を常套しつつ生活しているのでしょうか。ひょっとしたら友人や知人に対しても、憤りとともに「死ね」を連呼しているのかもしれません。
 言葉は生きています。なぜなら生きている人間以外からは発せられることがないからです。言葉を生かすも殺すもその人次第。言葉は人格を象徴するものでもあります。「死ね」はいただけません。そんな言葉をも未来へ育む子どもたちが見聞きしているのですから。
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第34回
「交換日記」
   何やら懐かしい響きすら感じさせるこの言葉。
 メールやラインなどなかった時代、好きな男の子や女の子とのやり取りの主流は交換日記でした。一冊のノートを一日ごとに交換し合うこの形式。まれに二冊のノートを毎日交互に交換し合う形式もあったと聞きます。
 メールやラインと異なるのは、日記は自筆だったということ。書きたいこと、伝えたいことを吟味して、ようやく文章へと起こしていく。相手のことを十分に慮りながら書き記す作業。何とも懐かしい思い出です。
 書くということが、あるいは頭の中で推敲するということが必要だった時代。そうすることが日常で、当たり前だった時代。今では書くことが打つことへと変わり、読むことが見ることへと変わってしまった感があります。
 この際、交換日記でなくても、自分のための自筆の日記など始めてみましょうか。いや、もはやそれは自分自身との交換日記なのかもしれません。
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第33回
「授業中の雑談」
 「授業中の雑談をやめてもらいたい」
 これは実際に知人の先生が管理職から受けた通達です。雑談と無駄話を混同した馬鹿げた内容であることは言うまでもありませんが、聞けばこれが生徒からの要望であったというのもまた驚きです。雑談は知識の宝庫です。上手に咀嚼すれば素晴らしい引出にもなり得ます。ただ一方で、咀嚼能力のない人間とっては、雑談など意味のないものです。吐き出すか或いは下痢や嘔吐と同じ症状に見舞われてしまうことでしょう。こうした要望を出した生徒は、自らの口当たりの良いものだけを摂取することで、成長の証など感じることなく生きていくのかもしれません。ただ、生徒の要望を真に受けた管理職もどうかしています。もはやそれは先生ではなく一介のサラリーマン、生徒に媚びる軟な導き手といわざるを得ないでしょう。授業中の雑談。そこには人生観と人間観があるはずです。取捨選択し、何が必要かをよく見極めて咀嚼する。それがビデオ授業とは異なる生の授業の醍醐味ではないでしょうか。

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第32回
「古典」
 古典というと、まず思い浮かべるのが、学校の授業でしょう。例えば、古文であれば、古文単語に始まり、次に文法、全訳を暗記して、それから試験に臨む。古典を味わうというよりも、古典の勉強のために何がしかの作業を積むというのが、実際のところなのかもしれません。
 古典、とりわけ古文は、歴史を通じてみることで、新たな出会いも生まれます。また、資料を横にして、その時々の慣習や風土と併せて読むことによっても、興味の度合いが違ってくるでしょう。
 暗記は勉強の基礎ですが、そこで古典の世界との接点が終わってしまっては、少々もったいない気もします。少し時間のある時に、あるいは少し余裕ができたら、どうぞもう一度古典の世界に入ってみてください。思わぬ発見が待っているかもしれません。
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第31回
「明治という時代」
 昭和史の研究が注目を浴びています。特に今般の「昭和天皇実録」により、その研究はさらに詳細なものになる可能性があります。これまでも昭和史は角度の違いはあれ、多くの人たちにより語られてきました。特に大東亜戦争に係わる史実にはあらゆる立場からあらゆる意見が述べられ、その都度熱い議論が展開されてきたような気がします。しかし一方で、昭和に比べ明治が史実として語られることが少ない、そんな気がしてなりません。
 確かに、幕末から維新にかけての激動の歴史は、それぞれのロマンが交錯するなどして、私たちの興味を強く掻き立てるものがあります。ただ、そこにはあまりにも情緒が浮き彫りにされ、肝心要の史実という点からの記述が少ないのではないかと思うのです。例えば、昭和天皇については多くが語られても、明治天皇についてはその機会が著しく減る。明治という時代を知ることは、実は日本の近代化を知ること。しいて言えば、明治を知ることにより昭和をさらに深く知ることにつながるのではないか。そうした期待があるのです。
 そこでちょっとお勧め
「明治天皇という人」新潮文庫 松本健一著
 もしよろしければ・・・
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第30回
「祭りのあと」
 夏祭り真っ盛り。浴衣姿と出店はまさしく夏の風物詩といえます。一方で祭りのあとは本当に儚いものです。非現実から日常へいきなり戻されてしまう。ここでの情緒の揺れ動きはよくわかります。
 祭りのあとで問題になるのは大量のゴミです。あちらこちらに投げ捨てられたゴミまたゴミの山。そして周辺に漂う異臭。
 ゴミはゴミ箱へ捨てる。これは生活の基本です。ゴミを平気でそこら辺りにポイと捨てる。これは厳しい言い方をすれば、生活の基本がなっていない、極めて幼稚であり、極めて馬鹿げた行為に他なりません。これでは夏の風物詩も全くの台無しです。
 祭りのあとが儚く虚しいのなら、異臭漂うゴミもまた世の中をそして人の心を象徴するものとして儚く虚しいものです。夏祭りという伝統文化を守り、次の世代に引き継ぐためにも、そこに必要な最低限のモラルについて、今一度考えてみなければならないのではないでしょうか。
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第29回
「漫画」
 「最近の若者は漫画ばかり読んで活字を読まない」と嘆く人を時々見かけることがあります。それにしてもこれは大変興味深い文脈ではないでしょうか。
「漫画を読む」「活字を読む(読まない)」
 漫画はキャラクターなどの絵だけで構成されるものではありません。会話はもちろんリアクションでさえ文字で表現されています。つまり漫画はイメージされた世界をあらかじめ絵で示すと同時に、簡易な文字や記号によってさらに描写を具体化する働きを持っているのです。それに対して、一般的な書籍ではイラスト以外は全て活字で埋められています。ここでは活字が醸すイメージを個々お読み手に委ねることになります。いずれにしても、見るのではなく、私たちは読んでいる訳です。仮に漫画を頭から否定するとなれば、絵本の世界観もある意味において否定の対象となり得てしまいます。
 分量さえこなせば活字に強くなるというものではないでしょう。活字を文化としてまた芸術として捉えた場合、そこは創造性の問題につながります。読むという作業ではなく、新たな世界に触れながら創造力を働かせる。その意味では、若者に限ったことではなく、大人も大いに問題ありといえます。車内での携帯電話のマナー、公共施設での横暴な振る舞い、並ばない、順番を乱すなど、これらひとつひとつは何より創造性の欠如からくるものだと思います。
 活字が文化なら漫画も文化のはずです。人間の生み出すものは、公序良俗に反するもの以外全てが文化です。そしてその文化によって私たちは創造力にさらなる磨きをかけることができるのです。[Topへ戻る]
第28回
「度を越えたいたずら」
 SNSを悪用したいたずら投稿が随分話題になりました。ツイッターやフェイスブックなどソーシャルネットワークサービスは、不特定多数の相手とのつながりから色々な情報を得ることができるという意味では大変便利なものです。しかし、度を越えたいたずらをやったうえに、それをわざわざ投稿することについて、一体どれだけの意味があるのかは不明です。
 少し話は違いますが、最近では図書館の本についても相当ぞんざいに扱われることがあるそうです。返却日を過ぎても返却されないケースもしばしばで、それらはいたずらを既に越えた、いわゆるモラルの欠如というより仕方ありません。
 幼い子どものいたずらは明らかにしつけの対象です。ただしある一定の年齢を過ぎてのいたずらは、今度は驚愕と嘲笑の対象へと変わります。同時に、場合によっては自己責任による高い代償を払うことになります。
 「自分のものは自分のもの」以上に「他人のものまで自分のもの」、あるいは「赤信号皆で渡れば怖くない」以上に「赤信号どう渡っても勝手でしょ」は、自分で自分の価値を下げ、さらには危険をも伴います。何事においても自制が必要であることに変わりありません。[Topへ戻る]
第27回
 「本物への親しみ」
 芸術への憧憬が深まるのは、大体いくつ位からでしょうか。もちろん、それは個人によって異なる訳ですが、それぞれの分野に対しても、大きな違いがあるものと思われます。
 例えば、絵画ならば、実際に美術館へ足を運ぶのは、ある程度の年齢にならないと不可能です。ただし、美術関連の書籍などで、間接的に触れることは可能でしょう。そこから、絵画への親しみが芽生え、そのうちに美術館にも足を運ぶようになる。そして、本物を鑑賞する喜びを体験するようになる。おおよそ、これは一つの順序といえるかもしれません。
 芸術は何といっても本物に触れることが大切です。しかし、それができないのなら、間接的にでも本物に触れる体験をする。これは子どもたちへの大人の責任であると言えます。
 利益にならないから、あるいは利権の温床になるからといって、行政が積極的に市民の芸術への憧憬に対して、平気でそれを排除する。まさに悪質以外の何物でもありません。こういった類の人たちには、これまで芸術に親しむなどといった機会などなかったのでしょう。それはとても悲しい現実だと思います。
 本物に触れる。本物に親しむ。そして心を豊かにする。人間は心で生きる生き物です。心はとても敏感です。多くの本物に触れ、親しみを持ちつつ、心に刻みたいものです。[Topへ戻る]
第26回
 「原書」
   外国文学を読む。とはいっても、原書で読むのはなかなか大変なことです。英語ならばまだそれなりに親しみがあるとはいえ、それでもわからない単語や複雑な構文に出会うとそこで諦めてしまう。こういった経験をした人は意外と多くいるのではないでしょうか。
 もちろん、原書でなくても外国文学に触れることは可能です。ただしそれは私たちでいえばあくまでも日本語に訳されたものです。そしてそこには訳者の恣意が含まれている可能性があります。ただ訳者はできるだけそれを排除しようとします。それでも同一の作品で異なる訳者による日本語訳を比べてみた場合、微妙な表現の違いに気づくことがあります。表現は訳者の内面を表すものだとすれば、それは恣意の表れとも受け取れるでしょう。
 ひとつの方法として、日本語訳を読んだ後に、一度原書に挑戦してみる。単語や構文の細部にこだわらずに、とりあえず読み進めてみる。あえてそうすることは、意外にも英語の長文に親しむ近道になるかもしれません。
 ちなみに、私は習得した言語について、それに関わる文学作品などは必ず原書で読むことにしています。山あり谷ありの読書ですが、なかなかスリリングで結構楽しいものです。
第25回
 「速読」
 ここにひとつの興味深い話があります。
 ひとりの上司が部下にある一冊の本を勧めました。これは上司の愛読書でもあり、人生の指南書でもありました。その本を手に取った部下は、上司の目の前で早速それを読み始めます。そして上司が席を外した数分の間に、部下はもう読み終えていたとのこと。普通なら相応の時間を要するその本を、数分で読んだとする部下の速読術に、上司は驚くやら呆れるやら、言葉が全く出なかったそうです。
 実は、私にも多少速読の心得があります。そして時と場合によっては、実際にその心得で読んでしまうこともあります。もちろん、時間をかけて行間を読むといった具合に読み進めることもあります。私にとっては、速読は読み方のひとつであり、全てではないということです。その意味では、速読は必要な技術でもあります。
 読み方は様ざまです。必ずそのやり方が正しいといったものではないと思います。ただ、先の話の場合、読み方以前に、部下の上司に対する心の機微に少し違和感を覚えます。上司にとって愛読書であり指南書でもある大切な本、折角ならば一定の期間でもお借りするといった、そういう配慮も部下には必要だったようです。速読もさることながら、最も難しいのは、実は人間関係かもしれませんね。
第24回
 「課題図書」
 夏休みに入りました。この期間、宿題をどういうやり方で終了させるかについて、誰もがそれなりに苦心することでしょう。早めに済ませるか、あるいは後半に追い込みをかけるか、やり方はそれぞれですが、大切なことは自分の力でやり遂げることだと思います。もちろん、他人からのアドバイスは大切です。しかし、答えを丸写ししたり、あるいは誰かにお願いをしたりなどというのは、当然避けるべきことです。全ては自分のためにある。だから自力でやる。そこから真の達成感が生まれるものだと考えます。
 数年前から、課題図書の読書感想文について、専門のサイトからの丸写しというのが問題になっています。たしかに、およそ興味が持てそうにない本を読んで、それについての感想文をまとめるということは、なかなか大変なことです。けれども、大変だからといって、こうした丸写しが認められるのかといえば、決してそうではないと思います。
 本は無理をして読むものではありません。しかし、課題図書として推薦されるには相当の理由があります。まずはそれを知るところから始めるといいかもしれません。それを手がかりに、自分の力で興味のある箇所を徹底して探し出す。こうした読み方も経験のうちだと思います。
 それぞれの箇所の印象について自分の言葉で書く。知らない言葉は辞書で調べてそれを用いる。良いものを書くのではなく、最初から最後まで自分の力で書く。それが知恵へとつながっていく。そう考えます。
 どうぞ、しっかり取り組んで下さい。前向きな姿勢を期待しています。
第23回
 「桜」
 春という季節の代名詞といえば、何といっても桜ではないでしょうか。桜は一つの節目を象徴するものでもあり、卒業や入学などにも深く関わっている様子が伺えます。桜をテーマにした歌もよく耳にします。文学作品の中にも、桜が登場する場面に比較的よく目にします。このように、桜は日本人の心の中に憩いを与える一方で、人生のはかなさを感じさせる側面も持ち合わせているようです。
 華やかで艶やかな桜の花。人生も同じく生きることは素晴らしい。しかし、人生は必ず終わりの時を迎える。そこから逃れることは決してできない。桜の花も同様に、季節が変わっても、咲き続けることはできない。必ずはかなく散ってしまう。人間の命と同様に。
 ものには色々な見方があります。これで完全という見方はありません。桜も同じく、別の視点から見る時、人間の命に通じる何かを発見してしまう。それもまた良いものです。
 読書を通して、桜と出会う。そんな時、作者はどの視点からそれを表現しようとしたのか。そういった思索も実に興味深いものです。

第22回
 「実物を手にする喜び」
 通販やネットなど、買い物が多様化する昨今、書籍も例に洩れず、読みたい本を自宅に居ながら入手するというのは、とても便利であり合理的な方法といえます。
 私も通販やネットで欲しいものを買うことがあります。ただ、書籍に関しては、一度読んでいて、なおかつ手元に残しておきたいものに限定しています。読んだことも触れたこともない本を、全く手に取らずに買うことには、いささか不安があるからです。
 活字は読むものであり、触れる対象ではない。それはその通りだといえます。活字に対して、手による感覚を重視するのは、明らかに矛盾しています。
 ただ、私にとって本とは、実際に手で触れて、表紙をめくるところから始まる新しい世界との出会いそのものを意味します。また、目的以外の別の本を見つけるという楽しさもそこには含まれています。
 新刊書であっても、古書であっても、実物を手にする喜びはまた格別なものがあります。新しい世界の広がりを、是非体験してもらいたいものです。

第21回
 「読み返しの勧め」
 かつて読んだ本がもう一度読みたくなる。そういう気持ちになる時は、すぐに実行をお勧めしたいものです。最初は難しく思えたものでも、時間を経てから読み返してみると、意外にも新鮮な感動を与えてくれることが多いからです。
 読みたくなる本とその時の精神状態は、ほぼ密接に関係し合うといわれます。止むを得ず読む本は別にして、読みたいと思わせるものには、タイトルや内容なども含めて、何かしら心を動かす要素が潜んでいるのでしょう。それについては十分納得できます。
 そんな時、ふとかつて読んだ本を懐かしく思うことがあります。手元にあればいいですが、それがない場合は、図書館の利用をお勧めします。規模の大きい図書館であれば、本棚になくても、数ある蔵書の中から発見することも可能です。
 読み返しとは新たな世界の発見です。読書の秋です。濫読と読み返しを実践してみてはいかがでしょうか。

第20回
 「濫読の勧め」
 読書は忍耐ではないというのが私の持論です。その時々の自分の気持ち、或いは身の丈にあったものを次から次へと読む、それが読書の基本だと思います。
 逆に、全く読まなくて良い時もあります。読みたい本がない。また読みたい気が起こらない。そういう時は無理をして読書を続けようとするのではなく、新たな本との出会い、それを読んでみたいという気持ちになるまで待てば良いのです。
 読みたい本を読みたいだけ読む。それも最後まで読まなければならないわけではなく、途中で投げ出してもいい。「〜なければならない」という読書は、もはや読書でもなんでもありません。ただの修行のようなものです。
 読書の秋といいます。図書館を覗いてみるのもいいでしょう。片っ端から読む。好きなだけ読む。好きなところだけ読む。読書とは自分を解放してくれるものなのです。

第19回
 「大切にしているもの」
 先日、中学生を対象にして、三つの題のうちから自らが選択して作文を書いてもらう機会がありました。三つの題とは以下のものです。
@私の将来の目標
A最近身の回りで起こった出来事
B私が大切にしているもの
 まず、最も多く選択された題は「私が大切にしているもの」で、さらに「大切にしているもの」として最も多く取り上げられたのは「お金」であり、次に「命」、そして「家族」の順番でした。こちらの期待は、「命」「家族」「お金」という順番ではありましたが・・・。
 順番はともかく、また内容はともかく、見えない「命」と、「家族」という単位の繋がり、そして生きるための手段として必要な「お金」について、中学生の視点で書かれたひとつひとつはとても印象的なものが多く、今後の文章指導について大いに参考となりました。
 私が文章指導について大切にしているものは視点です。書き方の基本さえ身に付けていれば、後はそれぞれの視点を個性として尊重してあげることが大切だと考えるからです。
視点は育つものです。それは色々な文章を書くことによっても可能です。さらに、書くためには読むという必要に迫られる局面が訪れます。こうして、書くことと読むことの相関関係により、視点は活き活きとして育つと私は確信しています。

第18回
 「指南本」
 指南本の売れ行きが好調のようです。「こうしたら儲かる」「こうしたら売れる」「こうしたら成功する」などのタイトルは、確かに人の目を引き付けるには魅力のあるものでしょう。また、こうした指南本は、かつてのバブル経済真っ盛りの折にも氾濫していたという記憶があります。経済が低迷し、生活やそこに係る家計を見直す必要に迫られるなか、逆の意味でこうした指南本に人気が集中するのもわかる気がします。
 儲かる例や売れる例、あるいは成功する例は、例として学ぶ価値はあるでしょう。しかし、それはあくまでもその人それぞれの例にしか過ぎません。それぞれが独自性を追求して、日々の努力を重ねた結果としての例であり、その例が全ての人に適用されることはありません。学ぶことはあっても、それをそのまま真似ることはできないのです。
 個人的には、私は「指南本」は好きではありません。その例が脚色されたものである可能性を完全に否定することができない以上、参考程度に留めておくことのほうが賢明な気がするからです。本屋さんには申し訳ないのですが、「指南本」はほんの立ち読み程度で済ませるようにしています。

第17回
 「テレビCM」
 東日本大震災直後から、普段のテレビCMがほぼ完全に自粛され、その代替として政府系のCMが繰り返して流されるという時期がしばらく続きました。大きな災害の直後で、そういった状況を致し方ないと思いつつも、繰り返しの数のあまりの多さに、正直うんざりしてしまったのも事実です。
 普段のテレビCMは、方向性が端的に示されていて、視聴する側の想像力が関与することは滅多にありません。しかも、同じものを繰り返して何度も流すということはほとんどありません。今回繰り返されたCMは台詞が無く、さらには語りに大きな抑揚がないことから、視聴する側に勝手な想像を抱かせてしまうことになったという側面があります。また、その想像も映像に合わせたものに過ぎないことから、一定限度の枠を出ることなく、結局は自分の想像の限界にうんざりしたというのが現実だろうと考えられます。
 想像力がある枠に無理矢理押し込められた瞬間、私たちは大きなストレスを覚えます。このストレスを超越した時、かつてある宗教団体によって大きな社会問題となったマインドコントロールが働くことになるのです。
 想像力は人間の知恵でもあります。豊かな想像力は財産です。自分の想像力はもちろん、他人の想像力についても大切にしたいものです。

第16回
 「時刻表」
 時刻表といえば、毎日の通勤や通学に関わる電車やバスなどの出発時間を記載したコンパクトなものを想像しがちです。私も自分が利用する交通機関の時刻表は必ず携帯しています。一方で、書店で販売されている書籍型の時刻表があります。これは、毎日の生活の中でというよりも、むしろ旅行や出張などといった場合に大いに力を発揮してくれる優れものです。
 実は、私は書籍型の時刻表を眺めるのが大好きです。それは、実際に旅行や出張とは関わらなくても、この型の時刻表には夢があり浪漫があると感じるからです。勝手に目的地を決めて、そこまでの過程を時刻表の世界で楽しむ。まだ見たことのない風景を頭の中で想像していく。時には、途中下車をして、回り道も良い。そこにはひとつの世界が大きく広がっていきます。
 想像は頭の訓練です。もちろん前向きな想像に限ります。そうすることで、豊かな心を養うことができます。時刻表は言葉や表現とは異なる別の意味での文脈を形作ってくれる、そんな種類の立派な書籍だと思います。

第15回
 「電子書籍」
 電子書籍が話題になっています。持ち運びが手軽な上に、読みながら同時に辞書機能を作動させることができるなど、本を読むというスタイルが、これまでとは全く異なる新しいスタイルへと変化しようとしています。もちろん、そこにはいくつかの問題点も指摘されています。普及に賛成反対の立場もあります。議論はしばらく続きそうな気配です。
 ところで、私はといえば、電子書籍の普及に賛成の立場をとります。指摘されている問題点についても、また、反対の立場についても、十分に理解できるところではあります。しかし、何であっても新しいスタイルを導入するにあたって、問題が何もないというものはなく、意見が分かれるのも常のことです。いずれにせよ、私が賛成の立場をとるのには、それなりの理由があるのです。
 それは、スタイルが変化しても「読む」という行為には変化がないということです。どのような読み方しても、そこには「読む」という行為が厳然と存在する訳で、知識を導入したり、見聞を広げたり、教養を深めるといった目的がなくなることはありません。むしろ、新しいスタイルによって、「読む」という行為が広がるのではないかという期待が膨らみます。
 ただし、手に取って「読む」ことをなくしてしまうことには反対です。持ち運びの便利さなど、合理的な手段としての電子書籍と従来の書籍との併用こそが、これからの書籍の新しい在り方だと思います。その意味でも、読み手として新しいスタイルには柔軟に対応したいものです。
第14回
 「阿弥陀堂だより」
 原作を読むのが先か、それとも映画を観るのが先か。それはまさにタイミングの問題です。どちらを先に触れても、決して失望しないこと、そのバランスは嗜好の問題もあり、なかなか難しいようです。その意味で、南木佳士原作の「阿弥陀堂だより」は、原作の素晴らしさと映像の見事さがバランスよく保たれた印象に残る作品だといえます。
 信州の自然を舞台に繰り広げられる人と人との暖かい心の触れ合い。新人賞受賞以後はより良く書けなくなってしまった作家である夫と、心の病に苦しむ医師であるその妻との夫婦愛。夫の生まれ故郷の信州で少しずつ癒されていく妻の様子。そこで新たな生き方をお互いが模索していく。
 目に見えない心という問題に真正面から取り組んだ原作の持ち味を、映像に活かそうとする作り手の全体の構図に、観るものはただただ圧倒されるばかりです。さらに、阿弥陀堂という地域信仰につながる人々の暮らしぶりと、堂を守り続ける老女の素朴で純粋な人柄にも大いに共感を覚えるところがあります。
 原作が先か、映画が先か、「阿弥陀堂だより」はどちらが先でも納得できる作品です。是非両方をお勧めしたいと思います。

第13回
 「情報の選別」
 ITの急速な普及により、私たちはあらゆる情報をリアルタイムに取得できる環境にいます。私も時事ニュースをメール受信できるように、ある携帯サイトとの契約をしています。朝刊と夕刊、それに号外と、日によっては同じサイトから数多くのメールが送信されてくることがあります。また、それ以外でもこちらが必要とする情報はあらゆるサイトから入手することが可能です。ブログに加え、ツイッターによる情報の入手は、その可能性をさらに拡大したものといえます。
 ITは今や私たちの生活には必要不可欠なものです。ただ、そこから発信される情報が全て優良なものであるかどうかについての判断は、それを入手する側の自己責任が伴います。その意味では、情報を選別する力を養うことも、IT社会に生きる私たちにとって欠かせないことだといえます。
 必要な情報を必要なだけ、しかも優良なものをより確実に入手する力、受身に流されるだけではいけない、社会の発展は私たちに新たなものを要求している気がします。
第12回
 「有意義な検定受検」
 最近は、検定受験が盛んなようです。多種多様な検定が数多くあって、種類によっては驚くほどの人数が受検するとのことです。
 ある特定の知識や技術について、その度合いを客観的に測定するという意味では、検定受検はとても有効な手段だと思います。また、進学や就職に有利になる検定もあることから、その効果を最大限に活かすことも良いことでしょう。ただし、検定は資格や免許とは明らかに異なるものです。それはあくまで知識の度合いを結果として示したものですから、実務を行うのに絶対必要不可欠ということではありません。また、検定の多くは民間が主催するものであり、国家が主催し公認した検定とは区別されなければなりません。類似した検定をよく見かけるのは、この区別が曖昧であることにもよります。さらに、検定だけではなく、資格や免許の取得に関わる詐欺まがいのビジネスにも注意が必要です。
 以上の点に留意した上で、検定受検を最大限に利用することによる知識や技術の拡大は、とても有意義なことといえます。また、目標のための努力と達成感は次なるステップへとつながることでしょう。そのようなチャレンジを大いに称えたいものです。

第11回
 「読書感想文の書き方について」
 国語教室においては、書き方応用のページ第1回と第2回で、読書感想文の書き方について紹介をしています。ぜひ、参考にしてもらいたいと思います。
 ところで、最近では夏休みの宿題の定番であった読書感想文が、強制ではなくなり任意のものになりつつあるとのこと、特に中学校や高等学校ではその傾向が強くなってきていると聞きます。インターネットでの模範文例をそのまま丸写しをしたものや、一部を変えだけのもの、あるいは本人の手が全く加えられずに導かれた通りに写したものなど、それらの提出があまりにも多いというのが理由のようです。
 同じ書くのなら、良いものを書きたいというのは本音です。また、書くこと自体が面倒だということもわかる気がします。しかし、他人の書いた文章をただ単純に写すだけで、しかもそれを堂々と提出するという行為は理解に苦しむところです。
 模範文例を参考にして学ぶこと、導き手のアドバイスから自分なりの工夫を凝らすこと、文章はそういった積み重ねで少しずつ上手くなるものだと思います。地道な作業ですが、怠らずにチャレンジしてもらいたいものです。
第10回
 「遠野物語」角川ソフィア文庫 柳田国男著
 この本は、岩手県遠野地方に伝わる伝説や怪異譚などを記録したもので、日本民族学の発展に大きな役割を果たしたとされる一冊です。ここには、民間信仰の神々、山中での怪異譚、妖怪譚や動物譚、年中行事や昔話などが記され、よく知られるザシキワラシも登場します。
 著者の柳田国男は、明治33年に東京帝国大学を卒業、農商務省や貴族院書記官長を経て、昭和10年に「民間伝承の会(後の日本民族学会)」を設立、雑誌「民間伝承」を刊行し、日本独自の民俗学を確立した人物です。なかでも、明治43年に出版された「遠野物語」は、民俗学の宝庫とされる遠野地方での伝承を記録したものとして、今日でも高く評価されています。
 独特の雰囲気を持ち、余韻が残るひとつひとつの記録は、ある懐かしさを覚えるものばかりです。遠野地方出身ではなくても、日本人としての心を揺さぶられる思いがします。さらに、文庫本は解説が明解で、記録についての索引もあり、また遠野地方の略図などがあって、読者への配慮が施されているのもその特徴です。
 夏休みの課題図書として、お勧めの一冊です。
第9回
 「お疲れ様です」「ご苦労様です」
 これらは相手の労力に敬意を示す素晴らしい言葉です。一方で使い方を誤ると、逆に相手に失礼にあたることにもなる言葉です。
 例として、部下が上司に対して、「お疲れ様です」は適切な使い方です。また、同僚同士のねぎらいにもなります。反対に上司が部下に対して、「お疲れ様です」は一般的な使い方とはいえません。その場合は、「ご苦労様です」が適しているといえます。また、部下が上司に対して、「ご苦労様です」は適切ではなく、それは取引先などへのねぎらいが一般的です。
 「お・・・」「ご・・・」はただ使えば良いのではなく、相手の立場を優先し、さらに考慮することから、もっとも適切に使うべき言葉といえるのではないでしょうか。相手への配慮があってこそ、言葉は生きてくるのだと思います。そのような心がけを常日頃から持っていたいものです。
第8回
 電子メールの普及により、手紙を自筆で書く機会が極端に減ったといわれています。
 私も例に洩れず、簡単な要件はメールで済ませてしまいます。手紙だけではなく、電話で直接話す機会も減ったといわれます。確かにそうです。時間や相手の状況に気を遣うことのないメールは便利ですし、その頻度は多くなる傾向にあります。
ただ、重要な用件は電話で直接話す方が便利な場合もあります。ダイレクトで会話をすることにより、話がスムーズに進むなど、特に緊急時の対応や、あるいは交渉の詰めなどは、逆にメールよりも電話の頻度が高くなります。
 相手の声からその表情や心情を想像して読み取るという作業は、コミュニケーション能力を高める意味ではとても必要なことです。相手に対する配慮、また相手からの配慮を同時進行で進めていくことにより、言葉の大切さを学ぶこともできます。
 デメリットを排除し、メリットを活かす使い分け。システムに対してはそういった知恵が必要なのかもしれません。
第7回
 新年度がスタートして、ひと月が経過しました。
 各学校の新入生も少しずつクラスなどの雰囲気に慣れた頃です。高等学校においては、新入生に入学前に宿題を出して提出させているところもあるようです。国語に関しては、本格的に古典を学んでいくことになり、古語や文法を習得するための基礎を身につけるという意味でも、中学校での復習についての宿題はとても効果的だと思います。
 古典を学ぶ上でどうしても必要になるのは古語です。もちろん文法も重要ですが、文法だけを学んでも、古語を知らないことには具体的に読み進めていくことはできません。知らない古語を単語集で暗記することによって、あるいは辞書を用いることによって、古語の力は確実に身に付いていきます。特に、辞書で古語の用例を把握することで、生きた言葉を学ぶことができます。その意味で、「古語辞典」は必要不可欠なものであると言えます。
 ところが、最近では持ち運びの便利な電子辞書が、その役割を果たしているようです。電子辞書には「古語辞典」も含まれていることから、高等学校によっては、「古語辞典」は任意での購入とし、電子辞書を許可しているところもあるくらいです。
電子辞書であれ、「古語辞典」であれ、それを用いて調べるところに大きな意義があると思われます。その意味では、私は電子辞書の導入に賛成の立場です。最も理想的なのは、電子辞書と「古語辞典」の両方を用いることです。手垢のついた辞書で調べるという面倒さと、一方では言葉を知る喜びと、その両方を味わえるのは、やはり「古語辞典」ということになります。ぜひ一度「古語辞典」を手にして欲しいものです。
第6回
謝罪会見における「皆様にご心配をおかけしました」
 最近、少し気になることといえば、社会的地位もあり、またその責任を負う立場の人の謝罪会見での言葉です。そもそも心配とは相手に対する過度な配慮を意味するものです。つまり危険に対する不安や怯えということです。謝罪会見の当事者と何らかの利害関係があるのであれば問題はありませんが、不特定多数に対する会見では、適切な言葉とはいえないでしょう。
 相手を不安がらせた、或いは怯えさせたということは、特定の利害の中で生じるものです。利害のない無関係に限りなく近い相手に、過度な配慮をさせた謝罪をするとなると、それは謝罪ではなくむしろ言い訳になってしまいます。結果、利害の有無を無視した形式的な謝罪会見と受け取られても仕方ありません。
 「関係者の皆様にはご心配をおかけし、一方で関係者以外の皆様にも不愉快な思いをさせてしまいました。」
 このように、利害のない皆様にも、平常とは異なる悪い感情を抱かせる結果になったことへの謝罪を含めるとどうでしょうか。社会的地位も責任もある立場の人の配慮が読み取れるのではないかと思います。[Topへ戻る]
第5回
産経新聞「産経抄」2010年2月23日より
 ここに俳優の三国連太郎さんについて、大変興味深いことが書かれていました。それは、三国さんが「舞台の台本は600回、映画の台本は200回読む」理由として、「作者の菌に冒されなくてはいけない」と語ったというものです。
 私が驚いたのは、台本を読む回数の多さだけではありません。ただ回数を読むのではなく、作者の思いがわかるまで読むという姿勢です。三国さんの名演技はここにあるのだと感心させられました。
 私たちは書かれている文字を追うことはあっても、行間を読むというところまで行き着かない時があります。文字にない作者の思いを、いくつかの言葉から類推して、そこに味わいを求める。そしてそれが可能になるまで何度も読み直す。時間的な問題もあって、なかなか実現できないことではありますが、本来の読書とはこうあるべきなのかもしれません。ただし三国さんの場合は読書ではありません。作者の思いを自分のものにして演じるために読むのです。仕事に対する情熱が全てそこに集約されるわけです。
 時間的な制約の中で、それでも作者の思いを味わうために読む、そういった読書を積み重ねていきたいものです。[Topへ戻る]
第4回
今回は偶然に図書館で見つけた一冊の本を紹介します。
「『くまのプーさん』を英語で読み直す」NHKブックス
ドミニク・チータム著 小林章夫訳

   くまのプーさんといえば、ディズニーキャラクターの人気者として広く知られています。実は私もプーさんの大ファンです。日本語版や英語版の絵本、またプーさんを哲学するという本などもしっかり本棚に納めてあります。 とにかく、プーさんの個性的なものの考え方や行動は、いかにもシンプルであり、どこか抜けているように見えながらも的を得ているという、何とも不思議な印象がある訳ですが、それを英語で読み直すというタイトルに強く魅かれたところがあります。
 くまのプーさんは、1926年にミルンが書いた子ども向けの本「ウィニー・ザ・プー」と、続けての「プー・コーナーの家」に登場し、大きな人気となりました。原作に登場するプーさんとディズニーキャラクターのプーさんは、色や顔つきなどが異なることはよく知られていますが、この本では、プーという名前の由来、登場人物(動物)の性格や作品での役割、またストーリの中での重要なポイントが示され、実際に英語で読む際の具体的な手引きになっています。 もちろん、日本語訳ですので、「くまのプーさん」を英語で読む機会がなくても、プーさんを知る上でとても楽しめる一冊と言えます。また、原作者ミルンについての参考文献なども紹介されていて、著者の親切さが伺えます。
 イギリスの文化の一部であるくまのプーさんをさらに知ることで、今まで以上にプーさんを好きになれる、そんなお勧めの一冊です。
第3回
「本が売れないのは活字離れの影響が大きい」
   本が売れなくなったというのは事実のようです。それによって閉店せざるを得なくなった本屋さんも多くあると聞きます。ただ、活字離れが相当に進んでいるとの記事には、少し抵抗を覚えます。乗り物で本を読んでいる人の姿をよく見かけますし、図書館でも同じような光景を数多く見ることができます。 もちろん、活字離れという現象を全く否定するつもりはありません。それは現にあると思います。けれども、そのことと本が売れない原因を安易に結び付けてしまうのはいかがなものでしょうか。
 私は年間に200冊ほどの本を読みます。一度読んだ本を読み返すこともあって,新刊本だけならその約半分になります。実は新刊本の大半は図書館などの施設で借りて読むのがほとんどです。古本は除いて、実際に購入するのはごく僅かなものです。 もちろん、良い本は手元に置いておきたいとは思います。けれども、私の印象としては、本の価格そのものがやや高いと感じるのです。例えば、単行本なら1000円以上はしますし、文庫本でも500円以上のものが目に付きます。昨今の経済状況から考えても、新刊本の購入は少々決断を要するのが実情ではないでしょうか。
 本が売れない。需要と供給のバランスから、本の価格が高めに設定される。そうすると買い控えが始まり、価格はさらに高くなる。読みたい本は借りるか、あるいは古本店に並ぶのを待つか。本が売れない原因は決して活字離れの影響だけではない、そのように私は考えるのです。[Topへ戻る]
第2回
「入試の結果を報告に来ない生徒が大変多い。また結果を報告に来ても、報告だけで肝心なその後の言葉が出てこない」
 これはある私立高校に勤務する先生の話です。ここでの「肝心な言葉」とは感謝の気持ちを表す言葉です。「ありがとう」の一言が出てこない。そういった現実を先生は嘆いている訳です。授業以外で入試に関わる指導をしても、入試が終わってしまえば全く音沙汰なし。中には廊下で無言のまますれ違う生徒もいるとか。もちろん感謝の気持ちは誰かに無理矢理強要されて言葉に表すといったものではありません。それは個々の心の問題です。ただここで大切なことは、感謝の気持ちも挨拶も、それを言葉にすることによって、人と人とをつなぐパイプになるということです。
「『おはよう』『こんにちは』『こんばんは』『ありがとう』『いただきます』『ごちそうさま』等」
 こういったひとつひとつの言葉が人と人をつないでいる。本当に素晴らしいことだと思います。最初は照れ臭いかも知れません。小さな声でもかまわない。一度声に出してみませんか。
第1回
「最近ようやく恋人と口喧嘩できるようになりました」
 これはある男子高校生の言葉です。交際が始まって1年が過ぎて、ようやく口喧嘩というコミュ二ケーションがとれたということ。 この場合の喧嘩とは、単に相手のことを罵倒するというものではなく、相手の意見を聞き、それに対して自分の意見を自分の言葉で伝えるというもの。 また、相手も同様に、こちらの意見を聞き、それに対して自分の意見を自分の言葉で伝える。 これは喧嘩ではなく、むしろ意見交換でしょう。 ところが、このカップルにとっては意見交換イコール喧嘩だということらしいのです。
「おかげで、メールの回数がかなり減りました」
 メールは確かに便利なものです。顔文字や絵文字も素敵なものが数多くあります。それらによるコミュ二ケーションも大切だと思います。 でも、お互いの意見を尊重し合いながら、自分の意見を自分の言葉で伝えることのほうが、とても魅力的ではないでしょうか。 相手の目を見て意思を伝え合う、そうすることによって、これまで以上に相手に親近感を覚えていく、その素晴らしさをこのカップルは体験しているのかもしれませんね。[Topへ戻る]