第63回
「すると、イエスは言われた。「恐れてはいけません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えるのです。」」 マタイ福音書28章10節

 復活したイエスに怖れ慄く人々に向かって、イエスは恐れてはいけないと語り掛けます。イエスのこの言葉は聖書のテーマでもあります。キリストの威厳は私たちを導く標です。キリストは常に私たちと共にいて下さいます。何時どこにいても私たちに語られるのです。

第62回
「正しい人が自分の正しい行いから遠ざかり、不正をし、そのために死ぬなら、彼は自分の行った不正によって死ぬ。」エゼキエル書18章26節

 神は人間の不正を決して赦すことはありません。たとえ一度の不正であったとしても、次の不正へと繋がる可能性をもつものだからです。不正は人から人へと連鎖していきます。 ここでの死とは神の目から何とか逃れようとする結末を意味しているのかもしれません。

第61回
「人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの家の見張り人とした。あなたは、わたしの口からことばを聞くとき、わたしに代わって彼らに警告を与えよ。」エゼキエル書33章7節

 主の命令は絶対的な権威のもと発せられます。主が何らかの導き手を任命される場合は、それを受ける側にとって大きな責任が伴います。しかし、主による配置は完全なものです。そうであるからこそ、私たちは主に全てを委ねて、信頼を寄せることができるのでしょう。

第60回
「わたしは、彼を一つの釘として、確かな場所に打ち込む。彼はその父の家にとって栄光の座となる。」イザヤ書22章23節

 神は人間の堕落を見逃すことはありません。そこに至るまでの過程において、何らかの警告を発し、そうして何度も注意を促します。そうやって、遂に神は決断をされるのです。 一方で、神は人間の新たな配置を試みられます。神は決して人間から離れることなく、忍耐をもって私たちを愛して下さる方なのです。

第59回
「真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着けるべきことでした。」エペソ人への手紙4章24節

 私たちは神に似た者として、神によって造られた存在です。しかし、その後は神から離れるという罪を犯してしまいました。それでも神の愛は変わらず、神に立ち返ることを赦されたのです。ここでの新しい人とは、まさにその愛に強い確信を持つ者をいうのです。

第58回
 「神は彼に仰せられた。「あなたがこのことを求め、自分のために長寿を求めず、自分のために富を求めず、あなたの敵のいのちをも求めず、むしろ、自分のために正しい訴えを聞き分ける判断力を求めたので、今、わたしはあなたの言ったとおりにする。見よ。わたしはあなたに知恵の心と判断する心とを与える。あなたの先に、あなたのような者はなかった。また、あなたのあとに、あなたのような者も起こらない。」列王記1 3章11〜12節

 知恵の心と判断する心とは何でしょう。「あなたの言ったとおりに」とある部分に注目すると、それは、自己中心的な考えに陥ることなく、他人の身体を傷つけることなく、神のみ言葉を真正直に聞き入れることの、宣言そのものを指すのではないかと考えるのです。素地や素養の全くないところには、どのような訴えも決して届くことなどないでしょう。神は私たちの心まで見通しておられるのです。

第57回
 「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。」ゼカリア書9章9節

 あなたの王とは一体誰のことでしょう。それは、いうまでもなく、私たちの主イエス・キリスト他なりません。ろばに乗って来た王とは、イエスそのものを言い表していたのです。ここにもまた旧約聖書と新約聖書のふたつの深い繋がり、そして同時に、新約聖書における旧約聖書の成就、さらにはまた、キリスト教についての深遠さが見られるのです。

第56回
彼はそこにあるほら穴に入り、そこで一夜を過ごした。すると、彼への主のことばがあった。主は「エリアよ。ここで何をしているのか」と仰せられた。」列王記2 19章9節

 主が仰せられることば、それはほら穴に身を隠そうとも、或いは仮にも耳を塞ごうとも、必ず私たちの耳元に届けられるものなのです。主は全てをご存知です。そして、私たちの全てのことついて気を留めておられるのです。

第55回
「主は雲の中にあって降りて来られ、彼とともにそこに立って、主の名によって宣言された。」出エジプト記34章5節

 ここでの名とは単なる名前のことではありません。それは尊さであり、また権威をも示すものであるという意味です。主たる神は、その尊さと権威を自らで宣言されました。それは、神ご自身が偽りのない存在であることを、ご自身で証明されたことになるのです。

第54回
 「イエスは言われた。「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自身の権威をもってお定めになっています。」使徒の働き1章7節

 私たちは人としての思いのみで神に祈りを捧げます。その応答も、人としての思いのみで期待を深めます。しかし神の時はそうした人の思惑を超えた超然としたところにあるのです。ですから、祈りの応答も、その順序も、全て神ご自身がお決めになることなのです。

第53回
 「神は彼に仰せられた。「あなたの名はヤコブであるが、あなたの名は、もう、ヤコブと呼んではならない。あなたの名はイスラエルでなければならない。」それで彼は自分の名をイスラエルと呼んだ。」創世記35章10節

 神は私たちの日々の祈りに必ず応えて下さいます。それにより、私たちは神に従って生きる力を与えられるのです。そうして私たちは日々新しくされていくのです。神の命に従って生きること。それはそのまま、私たちの新たな使命へと自ずと繋がっていくのです。

第52回
 「神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。」  使徒の働き2章32節

 弱虫だった弟子たちが、イエスの復活によって見事な強虫になりました。イエスが語ったひとつひとつの言葉が弟子たちの身体に深く浸透し、弟子たちを大いに励まし、復活の証人として立ち上がらせたのです。みことばはそうした力を持つ素晴らしい言葉なのです。

第51回
 「イエスは彼に言われた。『あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。』」ヨハネ福音書20章29節

 見えるものと見えないものとの差は歴然としています。見えるものは人を信用させるだけの力があります。では、心は見えますか。その根幹の脳のメカニズムさえ明らかではありません。それでも私たちは心があることを理解できています。たとえ見えなくても、あるものはきちんと私たちの前に存在しているのです。

第50回
 「『彼らが来たとき、サムエルはエリアブを見て、「確かに、主の前で油をそそがれる者だ」と思った。しかし主はサムエルに仰せられた。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」」 サムエル記第1 16章6〜7節

 人の目と神の目。この両者は根本的に異なります。人の目は物事の表面のみをただ単純に眺めます。
しかし神の目は私たちの心の奥にまでしっかり届いているのです。神は私たちの全てのことについてご存知なのです。

第49回
 「『目には目で、歯には歯で』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」マタイ福音書5章38〜39節

 悪と決して闘うな。つまり悪と闘うということは、既に悪と同じ視線に立っている。悪によって善が感化されている。悪から離れることは善であり続けることの絶対要因でもあるのです。

第48回
「復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である。」 レビ記19章18節

 恨みは敵と味方を生み、戦いの原点になります。復讐はその連鎖に繋がります。そうした相手を隣人として自分のように愛する。それは哀れみです。哀れみをもって相手に接する。主が哀れみをもって私たちに接するように。

第47回
「また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。」コリント人への手紙第1 13章17節

 愛の無い行為は無意味です。では、愛とは何でしょう。それは相手の立場をよく知ることではないでしょうか。それをわきまえもせず、押しつけがましく、また自己満足な行為は、相手にとってこの上なく迷惑なだけです。愛とは自己中心的にならないことなのです。

第46回
「この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」 マタイ福音書4章17節

 悔い改める。私たちには、神の元から離れる自由があります。しかし、神の元へ立ち返る自由もまた約束されています。その約束こそが赦しなのでしょう。悔い改めるとは、その赦しによって、再び神の元へ立ち返り、それにより、神への祈りを捧げることなのです。

第45回
「その翌日、またヨハネは、ふたりの弟子とともに立っていたが、イエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の小羊」と言った。」ヨハネ福音書1章35〜36節

 洗礼者ヨハネが見たもの、それはイエスの姿であり、同時に神の姿でもあったのです。
 また、ここでの「見る」とは、単に見るのでも眺めるのでもなく、目に留め、その本質を認めるという意味だったのです。目に留めること、その本質を認めることは、信仰の原点です。その原点に常に立ち返りながら、潤い豊かな日常を、活き活きと送りたいものです。

第44回
「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」とあなたがたの神は仰せられる。」イザヤ書40章1節

 神は語られます。人々を通して、その働きを通して、私たちに語られるのです。それを聞き逃すまいとする。信仰は冷静な姿勢とそれに基づく視点をも育んでいくのでしょう。

第43回
「力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。その御名は聖く、そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。」ルカ福音書1章49〜50節

 神への賛美、神への感謝、それらを言葉にする時、その栄光が自分ひとりではなく、賛美と感謝を惜しまない多くの人々にも、同じ栄光が示されることを望む、ここに信仰の拡がりを見ることができると思います。信仰の一致とはこのことをいうのかもしれません。

第42回
「これらのことをあかしする方がこう言われる。「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。主イエスの恵みがすべての者とともにあるように。アーメン。」黙示録22章20〜21節

 信仰を持つ者として、イエス・キリストは希望です。イエス様は私たちのすぐ側におられます。そして、時に喜びを、時に試練を、お与えになります。イエス様は神様です。でも私たちの目には見えません。私たちにもたらされるもの、それらが全て神の証であり、大いなる恵みだからです。心を開けば、たとえ見えなくても、感じることができるのです。

第41回
「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。」へブル人への手紙11章13節

 これらの人々、それはアブラハムであり、イサクやヤコブであり、サラを指します。これらの人々は、全て信仰によって神によって生かされた人々です。現実において、信仰を守ることは、実は容易なことではありません。けれども、神に立ち返ることを覚えた人々は、その信仰を守り抜き、結果それを後世に示すこととなったのです。後に来る人々の模範となる。なんと素晴らしいことでしょう。

第40回
「だれも、真新しい布切れで古い着物の継ぎをするようなことはしません。そんな継ぎ切れは着物を引き破って、破れがもっとひどくなるからです。また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、皮袋は裂けて、ぶどう酒が流れ出してしまい、皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れれば、両方とも保ちます。」マタイ福音書9章10〜11節

 新しいことへのチャレンジは、生きる活力そのものです。変革も、それに対応する力量は、エネルギーの源となります。新しいことを避け、変革を非難し、それを厭う姿ほど哀れなものはありません。生きる力は失われ、エネルギーと無縁になるからです。新しい扉が開かれた時、古い扉は静かに閉じられます。新たな祈りが、またそこから始まるのです。

第39回
「それで、イスラエル人は主の目の前に悪を行い、バアルに仕えた。彼らは、エジプトの地から自分たちを連れ出した父祖の神、主を捨てて、ほかの神々、彼らの回りにいる国々の民の神々に従い、それらを拝み、主を怒らせた。」師士記2章11〜12節

 人は成功を重ねると、それに反比例して、過去の恩を忘れてしまいます。成功を自分の力だけによるものだと過信してしまうのです。犬や猫などの動物は、恩を忘れません。その意味では、恩を忘れ、それを仇で返すのは、人間の専売特許と言えます。人間の弱さは全く変わってなどいないのかもしれません。

第38回
「私は祈っています。あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように。またあなたがたが、キリストの日には純真で非難されるところがなく、イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされている者となり、神の御栄えと誉れが現されますように。」ピリピ人への手紙1章9〜11節

 真の知識。あらゆる識別力。物の本質を正確に見抜く力です。偽物に惑わされることなく、本物だけを取り出す判断力は必要です。私たちは神ではありません。ですが、神の恵みによって、偽物から遠ざかることは可能です。それでも延々と偽物は私たちを取り囲むことでしょう。だからこそ、祈りは必要なのです。祈りによって、真の知識と識別力を養う神の助けによってそれを維持していくことが大切です。

第37回
「エルサレムよ、悲しみと不幸の衣を脱ぎ、神から与えられる栄光で永遠に飾れ。神から与えられる義の衣を身にまとい、頭に永遠なる者の栄光の冠をつけよ。」バルク書5章1〜2節

 義の衣は神の恵みです。悲しみと不幸に打ちひしがれようとも、決して希望を見失わない。それはなぜか。果てしない競争の果ての栄光とは異なる、祈りと感謝による無償の栄光を必ず神によって与えられることを知っているからでしょう。神の恵みによって守られ、神の恵みによって生きることの素晴らしさを知ることは幸いなことなのです。

第36回
「神は人間を不滅な者として創造し、御自分の本性の似姿として造られた。悪魔のねたみによって死がこの世に入り、悪魔の仲間に属する者が死を味わうのである。」知恵の書2章23〜24節

 人間の本性は極めて弱く、罪深いものです。そして遂に人間が堕落に対して厭わなくなってしまった時、そこからもはや人間は生きながらも死んでしまうことになるのです。活き活きと生きる。神の力は常に必要なのです。

第35回
「神は人間を不滅な者として創造し、御自分の本性の似姿として造られた。悪魔のねたみによって死がこの世に入り、悪魔の仲間に属する者が死を味わうのである。」 知恵の書2章23〜24節

 人間は神によって創造されました。しかしながら、人間は神ではありません。また神のように振る舞うこともできません。その本性は常に堕落と隣り合わせにあります。だからこそ神に祈りすがるのです。

第34回
「なぜなら、わたしは弱い時にこそ強いからです。」コリント人への手紙第2 12章7〜10節

 人間が強さを誇る時、それは自分の力以上のものを誇る時でもあります。しかし、それは真の強さではありません。人間が本当の強さを得るのは自らを省みる時です。自らの真の強さを知る。いや、むしろ力の無さを知る。そして神に祈り委ねる。神にへりくだる時にこそ、神は私たちに真の力を与えて下さるのです。

第33回
「神である主は、私の耳を開かれた。私は逆らわず、うしろに退きもせず、」イザヤ書50章5節

 神の言葉には力があります。ただし聞くこともできれば、一方で耳を塞ぐこともできます。クリスチャンはそれを聞き、そして心に留めます。ただ聞くのではありません。決意と覚悟をもってそれに従います。決意と覚悟。実はそれさえもまた神が与えてくれるものなのです。

第32回
「神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。」マルコ福音書15章38節

 十字架でのイエスの死。罵られ嘲りの中での死。これはその直後に起こった出来事です。神殿の垂れ幕が裂けることにより、神と人との隔たりが無くなりました。神の愛はここからゆっくりと人に向けて浸透を始めます。死は終わりではありません。それは新たな始まりを示すものなのです。

第31回
「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。」ピリピ人への手紙2章6〜7節

 神が人間と同じようになる。何ということでしょう。神は生半可なことはなさらない。神の愛も生半可や中途半端なものでは決してない。神の愛は実に果てしないものなのです。

第30回
「ヤコブはひとりだけ、あとに残った。すると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。」創世記32章24節

 神との格闘。それは単なる戦いではなく、信仰を巡っての神との対話だったのでしょう。神との対話。何と素晴らしい。神はそれをきっと望まれているに違いありません。

第30回
「ヤコブはひとりだけ、あとに残った。すると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。」創世記32章24節

 神との格闘。それは単なる戦いではなく、信仰を巡っての神との対話だったのでしょう。神との対話。何と素晴らしい。神はそれをきっと望まれているに違いありません。

第29回
「ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」と言うことはできません。」コリント人への手紙第1 12章3節

 御霊によることや聖霊によることは、ただの霊の働きではありません。それは信じる力からくるものです。信仰には様々な試練も伴います。けれどもそこに力が働くことで、その試練は乗り越えることができます。信仰はまさにそうした力を生み出してくれるのです。

第28回
「まことに主はこう仰せられる。「あなたがたは、ただで売られた。だから、金を払わずに買い戻される。」」イザヤ書52章3節

 たとえ苦難に襲われても、私たちは必ず救われ、平安を取り戻すことができます。言われのない誹謗や中傷も、私たちはそれに耐えることを知っています。ただただじっと耐えるのでは決してありません。そこには主による希望が既に用意されている。だから耐えることができるのです。

第27回
「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。」ペテロの手紙第1 1章8節

 見たことのないもの、見えないもの、それらは目で見ることは出来なくても、心に映すことはできます。神様は見えません。けれども私たちの心の内に働かれます。それを実感することが大切なのです。見えなくても神様は共にいる。何と大きな励ましであることでしょう。

第26回
「肉にある者は神を喜ばせることができません」ローマ人への手紙8章9節

 肉にある者とは神から離れた状態のことをいいます。私たちは自由です。神から離れる自由を持つ代わりに、神に立ち返る自由をも持ちます。しかし離れたままでは、生きてはいけません。誠実に生きるために、私たちは神に立ち返っていく。神はそんな私たちを喜んで迎えて下さるのです。

第25回
「アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。アブラムがハランを出たときは、七十五歳であった。」創世記12章4節

 主である神の言葉に従う。この前提にあるのは、主の言葉をよく聞くことにあると思います。主の言葉に耳を傾け、その正しさと偽りのなさに従う。信仰とは惰性ではなく、また頑ななものでもなく、一瞬一瞬を大切することだとあらためて思わされます。

第24回
「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせて下さるのです。」ピリピ人への手紙2章13節

 神は働かれる方です。私たちの心に忍び寄り、その中へと介入し、私たちを導いて下さります。それにより、私たちは神を信じる者として、何をするべきかを考え、そこから新たな歩みが始まるのです。

第23回
「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」マタイ福音書3章2節

 悔い改める。それは神に立ち返ることです。天の御国は私たちの心の持ち方によって、近くもなり、また遠くにもなります。近くにあるものを、立ち返ることによって、御国をさらに引き寄せる。やっぱり神は私たちの側におられるのだと思います。

第22回
「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」ヨハネ福音書20章27節

 時に私たちは神から離れてしまうことがあります。なぜでしょう。それは私たちに意思があるからです。意思は自由なものです。それによって信じることも信じないこともできます。ならば、神の懐に信じて飛び込む。そういう者でありたいと思います。

第21回
「光の子どもらしく歩みなさい。」エペソ人への手紙5章8節

 光とは何でしょう。それは暗闇を照らすもの、人を正しさへと導くものです。そして光こそ神そのものだと言えます。神の恵みによって導かれる存在として、それに感謝をもって生きことの大切さを思わされます。

第20回
「神は人をご自身のかたちとして創造された。」創世記1章27節

 私たちは神に似せられた存在です。さらには、神は私たちに似た存在とも言えます。イエスは神の子であり、同時に私たちと日常を共にされた方でもありました。そう考えると合点がいきます。ただ、私たちは神ではありません。神による存在に過ぎない訳です。 けれども似せられた存在としての使命はあります。それは神の導きによって歩むことではないでしょうか。過信することなく、卑屈になることもなく、日々を歩みたいものです。

第19回
「さあ来て、朝の食事をしなさい。」ヨハネ福音書21章12節

 食事はただお腹を満たすためのものではありません。感謝をもって頂くものです。特に朝の食事はその日一日の活力となります。朝の食事はまさにその日最初の神からの愛と言っても過言ではないでしょう。その恵みをしっかりかみしめたいものです。

第18回
「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。」ヨハネ福音書14章18節

 私たちは神の元を離れる自由を持っています。それが罪です。離れてもまた私たちは神の元へと戻ることができます。それが赦しです。けれども神はいつも私たちとともにいてくださる。それに気づかないのが罪ならば、気づくのは赦しだともいえるでしょう。赦されるということはなんと幸せなことなのでしょう。

第17回
「わたしはあなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」ヨハネ福音書14章27節

 神による平安。それは私たちの欲望を満たすためのものではありません。さらに平安は私たちの都合ではなく、神の計画によるもので、それは神による時とともに訪れます。神は時を間違えることはありません。神は平安とともに忍耐も私たちに与えるのだと思います。

第16回
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。」テサロニケ人への手紙第1 5章16〜18節

 私たちはことあるごとに不満を口にします。昨日まで満足していたことも、今日になれば不満へと変わってしまうこともしばしばです。いったいいつになったら心からの真の満足を得ることができるのでしょう。今あること、今ここにいること、何より今こうして生きていることそのものが幸せであるはずです。満足は身近なところにあります。

第15回
「求めなさい。そうすれば与えられます。」マタイ福音書7章7節

 求めるということは、何もしないで願うことではありません。それについての熱意とひたむきな努力が必要です。時に忍耐も必要です。それによって、自分を知ることができます。たとえ思い通りの結果は伴わなくても、必ず得るものがあります。それがきっと次への活力となるのです。

第14回
「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。」コリント人への手紙第2 13章13節

 信仰とは希望です。希望のない信仰など信仰ではないでしょう。さらに、信仰は配慮を伴います。相手の心に土足で踏み込む勧誘や伝道も、やはりあってはならないものだと思います。信仰は心で行うものです。信者であっても、配慮に欠けた押し付けは、やはり相手を躓かせてしまいます。独りよがりの、自己中心的な信仰に陥らないよう、気を付けたいものです。

第13回
「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」マタイ福音書19章19節

 ここでの隣人とは誰のことでしょう。ご近所のことか、それとも偶然隣に座った他人のことか・・・。実は隣人とは同じ部族のことを指します。私たちになぞらえるのであれば、すなわち家族のことになるのです。家族は小さな社会です。家族がいがみ合っているなら、きっと大きな社会もその影響を受けるでしょう。まずは、家族が愛をもって接し合う。社会の基本がここにあります。

第12回
「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。」マタイ福音書6章26節

 種蒔きをするのは人間です。刈り入れも人間が行います。倉に納めるのもやはり人間です。鳥が大空を飛びながら生きることが必然であるように、私たち人間も人間として必然でなければならないことがあります。それはおそらく生きるための知恵だと思います。悪知恵ではなく善い知恵を働かせながら、さらに感謝をもって生きる。そうありたいものです。

第11回
「初めに、神が天と地を創造した。」創世記1章1節

 私たちは偶然に生まれたのではありません。そこには未だ知らない大きな意味があるのだと思います。全てには意味がある。天も地も私たちが生きる上でなくてはならないもの。その地を踏みしめ、その天を見上げ、そうして私たちは生かされているのならば、私たちはこの世で何かを全うし、果たさなければならない役割がある、そのように思うのです。創造。それは壮大なもの。それに従いながら、私たちも精一杯生きたい。今日も、明日も。

第10回
「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから」マタイ福音書5章9節

 争いはどこにでも起こります。人が生きている限りそれは必然としてあり続けるでしょう。でも争いには必ず解決の道があります。必ずその時が訪れます。それはまたチャンスでもあります。そのチャンスを逃さない。平和はそうしたチャンスを見極めることにより与えられる。そのように思います。

第9回
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」コリント人への手紙第2 5章17節

 私たちは過去を引きずりながら生きています。刻むものはしっかり刻み、そうでないものはできるだけ封印をします。それらは悩みであり苦しみでもあります。でもひとつだけ、自分を新しくする方法があるように思います。それは祈りです。もちろん祈りが全てを忘れさせてくれるというわけではありません。祈りの効果は新たな視点を勝ち取る原動力になります。これこそが自分を新しくさせる大きな力となるのだと思うのです。

第8回
「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」詩篇103章2節

 「喉元過ぎれば熱さ忘れる」という諺があります。辛さも苦しさも、時間が過ぎると忘れます。一方で、喜びや感謝の気持ちも、同じように薄れていくものです。生きることは平坦なことばかりではありません。それに伴い感情の起伏も起こります。それでも私たちは与えられた命を精一杯生きなければなりません。過去を教訓とし、また時には懐かしみながら、その日その日をしっかり歩んでいきたいものです。

第7回
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」イザヤ書43章4節

 ひとりひとりの存在には必ず意味があります。意味があるということはその為の理由が 明確であるということです。そうして私たちはそれぞれが与えられた場所へと配置されていくことになります。私もあなたも全てがどこかで必要とされている。生きる喜びはそこから生まれるのだと思います。

第6回
「いつも主にあって喜びなさい。」ピリピ人への手紙4章4節

 生活のためにお金は必要なものです。けれどもそれは正しいビジネスの結果としての報酬に限ります。不正による喜びは実は喜びではなく、結局享楽に過ぎないからです。神様によって配置された場所で、正しいビジネスを行う。そこでの喜びは感謝が伴います。神様に感謝。家族に感謝。皆に感謝。

第5回
「神は喜んで与える人を愛してくださいます。」コリント人への手紙第2 9章7節

 与えるものとは物質に限りません。言葉や挨拶もその対象になるのと思います。特に挨拶は重要です。なかでも朝の挨拶はその日一日を左右することさえあります。挨拶を交わした後の清々しさは心地良いものです。そしてとても優しくなれる気がします。そしてそれもまたその日一日の活力になります。愛は力です。正しい知恵です。毎日がそうした力と知恵に満ち満ちていたいものです。

第4回
「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。」マタイ福音書7章12節

 私たちには色々な欲求があります。そしていつもそれらが十分に満たされることを望んでいます。しかし物事には必ず時があります。その時が訪れるまで待つ。その繰り返しで人は少しずつ強くなれるのでしょう。さらにそういった経験を積むことで、他人の心の機微がわかるようになり、相手を思いやることができるようになるのだと思います。

第3回
「私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。」ヨハネの手紙第1 4章7節

 他人の心の中にただむやみに土足で立ち入ることは絶対に避けなければなりません。心は敏感です。十分な配慮をもって接することで、相手の心も開かれていく。そしてそれが分かり合えるきっかけとなる。時にはそっと寄り添い見守ることも大切でしょう。本当の愛はそうした十分な配慮から生まれていくのだと思います。

第2回
「子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。」エペソ人への手紙6章1節

 ここでは子どもは素朴な心を持つ存在として、さらにその心で両親を敬うことを勧めています。昨今、親による虐待やいじめが多く取り上げられるなか、親もまた神様によって生かされる喜びの中で、子どもたちへ愛情を注がなくてはなりません。喜びは親子にとって大きな支えになることを思わされます。

第1回
「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。」伝道者の書12章1節

 創造者とは威厳ある者という意味です。私たちは年齢を経るごとに老いへと近づいていきます。若さはいつまでもあり続けるものではありません。早いうちから威厳ある者の存在を自覚し、信仰へと導かれることは、それはまさに喜びの人生そのものなのだと思います。
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