エクレシアグリーンフィールズ
  キリスト教史・教会史(西洋編)



  
INDEX
キリスト教史・教会史
(日本編)
New! 2011/8/16
西洋編完結
聖書地図を開く
第1回
第2回
[出エジプトの歴史的意義]
第3回
[モーセと十戒]
第4回
[約束の地カナン]
第5回
[士師の時代]
第6回
[王国時代]
第7回
[ダビデの足跡]
第8回
[ソロモン王の栄華]
第9回
[南北王国の滅亡]
第10回
[預言者たち-前編-]
第11回
[預言者たち-後編-]
第12回
[ユダヤ人の帰還]
第13回
[神殿の歴史]
第14回
[ルツという女性]
第15回
[創世記〜ルツ記]Q&A
第16回
[新約聖書の構成]
第17回
[イエス・キリストの誕生]
第18回
[洗礼者ヨハネ]
第19回
[弟子集団の形成]
第20回
[イエスのたとえ話]
第21回
[イエスの奇跡]
第22回
[山上の説教-前編-]
第23回
[山上の説教-後編-]
第24回
[イエスの安息日]
第25回
[エルサレム入り]
第26回
[最後の晩餐]
第27回
[受難-前編-]
第28回
[受難-後編-]
第29回
[復活]
第30回
[初代教会の誕生]
第31回
[パウロの回心]
第32回
[パウロの伝道旅行]
第33回
[パウロの思想]
第34回
[キリスト教徒への迫害]
第35回
[ミラノ勅令]
第36回
[キリスト教の国教化]
第37回
[国教化による変化]
第38回
[キリスト教神学の基礎]
第39回
[東西教会の分裂]
第40回
[教皇権の伸張]
第41回
[十字軍遠征]
第42回
[宗教改革]
第43回
[イエズス会]
第1回
 キリスト教とは、十字架の上で死にそして蘇ったイエス・キリストを救い主として信仰し礼拝する宗教のことです。そして、その教義内容を伝えるものが聖書です。
ですから、キリスト教史や教会史を学ぶということは、聖書の歴史的背景やその内容を学ぶということにもなります。
聖書は、紀元前1400年頃から紀元後90年代まで、何と1500年にわたり書かれ(紀元前2000年頃から2000年近くにわたって書かれたという説もある)、紀元前に書かれた旧約聖書39巻と、紀元後に書かれた新約聖書27巻の計66巻から構成されています。

つまり、歴史を学ぶ上で、私たちはおよそ4000年以上前に遡る必要があるというわけです。
 さて、紀元前2000年頃というと、日本では縄文文化が栄えた時期に相当します。世界史では、オリエントと地中海世界に注目します。
古代文明のうち最も早く成立したのがオリエント文明です。紀元前3000年頃から、ティグリス・ユーフラテス川流域のメソポタミア地方、ナイル川流域のエジプト地方には、高い文明が栄え、発達していました。そのメソポタミアとエジプト結ぶ通路として、また東地中海への出入口として海陸交通の要所であったのが、地中海東岸のシリア・パレスチナ地方であったわけです。

紀元前1500頃からは、この地方を支配していたのは、セム系3民族と呼ばれる、アラム人・フェニキア人・ヘブライ人であり、何よりこのヘブライ人こそが、キリスト教史を学ぶ上で大変重要な意味を持つ民族となるわけです。
 ヘブライ人とは、外国人による呼び名であり、ヘブライ人自身はイスラエル人と称していました。その後紀元前586年に起こったバビロン捕囚以降は、ユダヤ人と呼ばれることが多くなりました。イスラエルは、「神と競う」という意味を持つ言葉です。
聖書では、神がイスラエルを聖別され、選び、そして全世界の救済を実現しようとされたとあります。
すなわち、神とイスラエルの間の契約が旧約ということになるわけです。
 私たちは、先ず旧約聖書の時代を学びたいと思います。聖書が旧約と新約から構成されているように、私たちもそれに応じて先ず旧約聖書の時代について学ぶ必要があると考えるからです。
 ところで、世界史の教科書を見てみると、旧約聖書に出てくるモーセという人物が出てきています。
出エジプトやバビロン捕囚なども、やはり教科書に出てくる歴史事項です。
その意味では、地域別世界史を学ぶという気持ちで進めていきたいと思います。
次回は、出エジプトの歴史的意義について学んでいきましょう。

 
第2回
 イスラエル人はもともと遊牧民族でした。
しかし、紀元前1500年頃にパレスチナに定住し、また一部はエジプトに移住をすることとなります。
当時エジプトは祭祀権力を中心とした宗教国家でした。
一方では排斥主義的側面を持ち、イスラエル人を賦役奴隷として扱い、苦役労働に従事させていました。
このようなエジプト国家によるイスラエル人への労働を通しての酷使と虐待は、イスラエル人を次第に絶滅という窮地へ追い込む程のものでした。
その時、イスラエル人の窮地を救ったのがモーセという指導者だったのです。
指導者モーセによって、イスラエル人はエジプトから脱出、40年という長い彷徨の結果、カナンの地に至ることとなります。
ところで、モーセという指導者はどのような人物であったのでしょうか。
旧約聖書「出エジプト記」によると、イスラエル人の子どもとして生まれたものの、ナイル川に捨てられ、偶然水浴に来ていたエジプトの王女に拾われ、エジプト人として育てられたとあります。
ところが、エジプト人のイスラエル人への酷使と虐待を見かねたモーセは、エジプト人を殺害するに至ります。
この事件により、モーセは身を隠さざるを得ない状況となってしまいます。
その後モーセはシナイ半島のミデヤン人の娘と結婚し、羊を飼育しながら生活していましたが、ある時モーセは燃える芝の中から神(ヤハウェ)の声を聞きます。
そして、ヤハウェはモーセに対して、エジプトからイスラエルの民を救出するように告げられるのです。
この体験こそが、出エジプトという歴史的事実の大きなきっかけとなったわけです。
モーセによる出エジプトの意義は、それが単なる国家脱出でも民族移動でもなく、モーセがイスラエル人の宗教における創始者であり、預言者であるということにあります。
その意味でも、ヤハウェの命に従ったモーセの偉業は、歴史的偉業にとどまらず宗教的にも深い意味を持つものであると言えます。
次回は、モーセと十戒について学んでいきましょう。

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第3回
 モーセに率いられたイスラエルの民は、「乳と蜜の流れる」約束の地カナンへ向けて旅を続けます。
そして3ヵ月後、宿営地のシナイ山の麓に到着します。
そこでモーセは、神に命じられるままにシナイ山を登り、守るべき戒律が記された2枚の石板を授けられます。
その石板に刻まれたものこそ、それが十戒だったのです。
 十戒の内容は次の通りです。
 1 あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。
 2 あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。
 3 あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。
 4 安息日を覚えて、これを聖とせよ。
 5 あなたの父と母を敬え。
 6 あなたは殺してはならない。
 7 あなたは姦淫してはならない。
 8 あなたは盗んではならない。
 9 あなたは隣人について、偽証してはならない。
10 あなたの隣の家をむさぼってはならない。
 十戒の内容は「神に対する義務」「人に対する義務」の2つに分類することができます。
1〜5の戒律は「神に対する義務」、6〜10の戒律は「人に対する義務」となります。
そこで、なぜ5の戒律が「人に対する義務」ではなく、「神に対する義務」となるのか、疑問が生じます。
確かに私たちは、父母を尊重することは人の義務であると捉えます。
しかし十戒では、人である父母を神の代表としてみなすことから、「神に対する義務」となる訳です。
神と人間との正しい関係は、人間と人間との正しい関係にも影響する。
モーセがシナイ山で授けられた十戒は、神との契約であり、単なる約束ではなく、律法として、イスラエルの民の新しい共同体意識と民族的自覚をもたらすものとなったのです。
 その後も、約束の地カナンへ向けて、イスラエルの民は旅を続けます。
それは苛刻な旅でした。
その結果、神への不平や裏切りという身勝手な行動が明らかになります。そこで神は怒ります。
そして、イスラエルの民は40年もの間、荒野での厳しい生活を余儀なくされるのです。
 次回は、約束の地カナンを巡る戦いについて学んでいきましょう。

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第4回
 イスラエルの民を率いてエジプトを脱出し、シナイ山で神から十戒を授かったモーセ。
彼はそのエジプト脱出以来の歴史を顧みることで、イスラエルの民に守るべき律法を説きました。
それが旧約聖書の「創世記」「出エジプト記」「レビ記」「民数記」「申命記」の五つの書であり、モーセ五書と呼ばれるものです。
しかし、そのモーセも約束の地カナンに足を踏み入れることはできませんでした。
モーセはカナンを前にしてこの世を去ってしまいます。
モーセの後継者にはヨシュアが選ばれました。
ヨシュアに率いられたイスラエルの民はカナンの入り口であり、アモリ人が支配するエリコという町に到着します。
そこでヨシュアは徹底した町の調査を行います。
そして、上流で水がせき止められるという奇跡によって、無事にイスラエルの民はヨルダン川を渡り、ようやく約束の地カナンに足を踏み入れることが出来たのです。
 エリコに侵攻したイスラエルの民は、町を壊滅状態へと追い込み、攻略に成功します。
またアイの町にも侵攻しますが、苦戦を強いられた結果、ようやく攻略に成功します。
さらに、ヨルダン川西岸のギルガル、地中海沿岸のガザ、北方のハツォル、そして南方の諸都市まで、カナンのほぼ全域の攻略に成功、こうして約束の地を巡るイスラエルの民の戦いは終結へと至るのです。
 このようにして獲得した土地について、ヨシュアはイスラエルの十二部族にそれぞれ土地を割り当てます。
イスラエルの十二部族とは、ルベン・シメオン・レビ・ユダ・ダン・ナフタリ・ガド・アシェル・イサカル・ゼブルン・ヨセフ・ベニヤミンを指します。しかし、当時カナンの地にはイスラエルの民以外にも、エドム人・モアブ人・アンモン人が定住し、それぞれの国家が築かれつつあるという状況でした。イスラエルの民の戦いは、カナンの地の征服で完全に終結したわけではなかったのです。その後もイスラエルの民は戦うことを余儀なくされていきます。
次回は、ヨシュアの死後登場した士師と呼ばれる指導者に目を向けていきましょう。

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第5回
 モーセの後継者ヨシュアの死後、イスラエルの民をまとめる指導者は現れませんでした。
そのような状況の中、イスラエルの民はカナンの神々を崇拝するようになります。
これはまさしく異教の神々への崇拝であり、イスラエルの民の堕落を意味するものでした。
神はそのような堕落したイスラエルに対し、周辺民族による抑圧という裁きを下します。
この裁きにより、イスラエルの民が悔い改めることで、神は士師という指導者を登場させ、イスラエルの民を救済します。
しかし、救済された後も、イスラエルの民は堕落から裁きそして悔い改めその後救済というパターンを繰り返していくのです。
神がイスラエルの民を救済するために士師を登場させた時代を士師の時代といいます。
 この時代神は12人の士師を登場させました。
オトニエル・エフド・シャムガル・デボラ・ギデオン・トラ・ヤイル・エフタ・イブツァン・エロン・アブドン・サムソンがその士師たちです。
これら12人の士師たちは、出身地もさまざまであり、それが不明である人々もいるとされます。
例えば、オトニエル・シャムガル・デボラについてはその出身地は不明とされています。
また士師たちが戦ったとされる場所もさまざまです。
エフドはモアブのエグロン王と、シャムガルとサムソンはペリシテ人と、それぞれ死海に近い場所で戦ったとされます。
デボラはカナンのヤビン王とシセラと、ギデオンはミディアン人とアマレク人と、それぞれガリラヤ湖に近い場所で戦ったとされます。
またエフタはアンモン人と、ガリラヤ湖と死海のおおよそ中間地点、ヨルダン川の西側に近い場所で戦ったとされます。
いずれにせよ、士師たちはイスラエルの民を不信仰という堕落から救済するために神から用いられた指導者であったのです。
 士師の時代の後、イスラエルにサムエルという神のことばを伝える預言者が現れます。
その後イスラエル初代王サウルが登場します。
次回は預言者サムエルとイスラエルの初代王サウルの足跡を追っていきましょう。

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第6回
 クレタ島を中心とするミノア国の出身で、かつては海の民と呼ばれたペリシテという民族がいました。
その後ガザからドルにいたる海岸線にいくつかの都市国家を建設、イスラエルの民の生命全体を存亡の危機に立たせます。
イスラエルの民は、この統一され組織化され、さらに優秀な武器を使用するペリシテ人という強敵と対決することを余儀なくされるのです。
このような時代において、イスラエルの民の心の拠り所となったのが預言者サムエルです。
サムエルは、母ハンナによりシロの聖所の祭司エリに委ねられ、神に仕えて成長し、預言者としての信頼を得ることになります。
そしてペリシテ人との戦いによる祭司エリとその息子の死後、サムエルは祭司エリの後継者として、そして士師として、イスラエルの民を指導する立場となり、ついにペリシテ人を撃退することになるのです。
しかし、サムエルが老いていくなかで、イスラエルの民は王制を求めはじめ、それに反対するサムエルと対立するようになります。
地上の世俗的王国の建設が神の王的支配を妨げ、民族の宗教基盤が崩壊することを恐れたサムエルでしたが、民の言葉を神に伝えたところ、王となる人物を探すようにという神の指示を受けます。
そこで探し出されたのが、ベニヤミン人のサウルという人物でした。
サムエルに油を注がれイスラエルの初代王となったサウルは、アンモン人の襲撃を撃退、ペリシテ人や周辺民族とも戦います。
しかし、全てを滅ぼし尽くすようにと神から命令されたアマレク人との戦いで、サウルはその命令を破ってしまいます。
その後、神から見放され、サムエルから見限られ、孤独と失意に陥ったサウルは、悪霊にもさいなまれるようになります。
結局、サムエルの死後も、神とサウルとの関係は修復されることはなく、ギルボア山でペリシテ人に撃たれたサウルは息子たちと共に自害してしまいます。
このような状況のなかで、神の指示を受けたサムエルが密かに油を注いだ人物がいました。
その人物こそが、イスラエルを近東最大の帝国に伸し上げたエッサイの子ダビデだったのです。
次回はダビデ王の足跡について学んでいきましょう。

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第7回
 サウル王の後を引き継いで王の地位に就いたのは、ベツレヘムの羊飼エッサイの子のダビデでした。 ダビデは旧約聖書の詩篇の著者として知られています。
ダビデは竪琴の名手としてサウルに仕え、幾多の戦争で功績を重ねた後、サウルの家臣の第一人者となります。
しかし、その後はサウルの反感と嫉妬により、逃亡生活を余儀なくされます。
そして、かつての仇敵であるペリシテに家臣として仕え、有力な諸侯となります。
このような経緯のなかでも、ダビデはイスラエル周辺の土地を次々と攻略し、その戦利品をユダのネゲブの長老に贈るなどし、ユダとの関係を維持しようとしました。
ペリシテ王に忠誠を尽くしているように見せかけつつも、ダビデは時を待ち続けます。
 ダビデはペリシテ側につきつつも、かつてサウルの家臣であった過去を持つことから、サウルとの戦いに従軍せず、戦争に関与することはありませんでした。
サウルの戦死を知ったダビデは、ヘブロンに移りユダの王の地位に就きます。
ここには、ダビデの即位による、ダビデとサウルの遺族との勢力争いから闘争に至るというペリシテの意図が働いていたものと考えられます。
結果的に、サウル側の内紛により、イスラエルの長老がヘブロンに来てダビデと契約、ダビデはイスラエルとユダ両国の王に就くことになり、ここにイスラエルの統一が果たされることになります。
ダビデは、ヘブロンで七年そしてエルサレムで三十三年王として君臨し、強力な軍事的政治的指導者として、近東最大の帝国を完成するという偉業を達成することになったのです。

 しかしダビデの晩年は苦悩に満ちたものでした。
アンモン人との戦いの最中、ダビデは家臣であるウリヤの妻バト・シェバと関係を持ち、その後彼女の妊娠を知らされます。
ダビデはその事実を隠蔽するため、ウリヤに対して妻と寝ることを促します。
しかし、ウリヤは戦いの最中であることを理由にそれを拒否、ダビデは司令官であったヨハブに命じて、ウリヤを激戦の最前線に置き、ウリヤを戦死へと至らせたのでした。
また、王位継承を巡る諸問題で、第三子アブサロムの反乱により、ダビデは一時期エルサレムを追われるという事態にまで発展します。
その後、ダビデはソロモンを後継者として王位を譲渡、光と影を持つ統一イスラエルのダビデ王は死を迎えることになります。
 次回は栄華を極めたソロモンについて学んでいきましょう。

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第8回
 ソロモンはダビデとバド・シェバの2番目の子として生れました。
王位に就いたソロモンは、王位継承を争った兄アドニアを処刑、またアドニアを助け支持した軍司令官を処刑にし、祭司アビヤタルを流刑にします。
これにより、ソロモンの王権は確立し、その地位は不動のものとなるのです。
 次にソロモンが着手したのは、エルサレム神殿の建設でした。
技術的工芸的進歩のめざましいフェニキア人の王、ツロのヒラムの援助を受け、国民的礼拝の中心地として、また国民統一の精神的拠点としての神殿を築きます。
この神殿の建設はソロモン王の栄華の象徴ともいえるべきものでした。
 ソロモン王権の特徴の一つとして、官僚制の確立と十二の行政区分における知事の配置をあげることができます。
それ以外には、諸外国との貿易を積極的に伸張し、平和的外交関係を樹立していきます。
その背景には、エジプト王ファラオの娘と結婚し王妃に迎えるなど、諸外国の王女との結婚政策があったとされます。
また国内要塞都市の強化により、積極的軍事機構を確立していきます。
このように国内制度の整備と諸外国との貿易の積極的な伸張、また、シリアからパレスチナ沿岸に沿ってエジプトに向かう海の道やヨルダン東岸を南北に通行する王の道の支配などにより、莫大な富を得たことで、イスラエルの繁栄は絶頂を迎えます。

 しかし巨額の経費を必要とした栄華は次第に危機を迎えることになります。賦役と重税により民が不平不満を募らせます。
また、結婚政策により神殿内部での異教礼拝が行われるようになり、神殿が異教崇拝のための神殿となってしまいます。
これは明らかに神への裏切りであり、イスラエルにとって重大な問題となります。
このように、政治的・経済的・宗教的矛盾によって、結局ソロモン王朝は崩壊へと向かっていくのです。
 ソロモン王の死後、イスラエル王国は、エルサレムを中心とする2部族による南ユダ王国と、サマリアを中心とする10部族による北イスラエル王国に分裂することになります。
南ユダ王国は新バビロニア帝国によるエルサレム陥落までの355年間、北イスラエル王国はアッシリア帝国によるサマリア陥落までの200年間、それぞれ続くことになるのです。
 エルサレム神殿については、新バビロニア帝国の侵略により破壊された後、紀元前515年頃にバビロン捕囚からの帰還民が第2神殿を完成させます。
その後は、紀元前20年頃にヘロデ王がその第2神殿を大改修し、それがヘロデの神殿といわれるようになります。
ソロモンの神殿が第1神殿とするなら、ヘロデの神殿はまさに第3神殿となるわけです。
しかしその神殿も、その後ローマ帝国軍によって破壊され、現在は神殿の西側が「嘆きの壁」として残っています。
 次回は南北に分裂した王国の滅亡までについて学んでいきましょう。

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第9回
 サマリアを中心とする10部族による北イスラエル王国と、エルサレムを中心とする2部族による南ユダ王国、南北に分裂後、北イスラエル王国はアッシリア帝国によるサマリア陥落までの200年間、南ユダ王国は新バビロニア帝国によるエルサレム陥落までの350年間それぞれ続くことになります。
この間、政治とかかわりを持つ多くの預言者が現れました。
まず、今回はそれぞれの王国の滅亡までの過程を簡潔にみていくことにして、預言者たちについては次回に譲ることにします。
 エルサレム神殿に民の意識が集約し、それによって王国の基盤が不安定になることを恐れた北イスラエル王国初代王のヤロブアムは、王国北端のダンと南端のベテルに聖所を築きます。
しかしそれは、エルサレム神殿にある十戒が刻まれた石板を収める契約の箱とは異なる、「金の子牛」を置くために築かれたものでした。
これはヤロブアムの罪として、北イスラエル王国滅亡の原因とされています。
 一方、南ユダ王国の初代王レハブアムは、イスラエル再統一を武力で成し遂げようとします。
しかし、預言者シェマヤによる警告や、エジプトによる南ユダ王国への侵攻により、その奪還計画は白紙に戻されてしまいます。
 このように、初代王の時代から南北間の争いは絶えることはありませんでした。
その両国間の争いにようやく終止符が打たれます。
それは北イスラエル王国アハブ王の時代です。アハブ王は娘のアタルヤを南ユダ王国の皇太子ヨラムに嫁がせます。
それにより、南北に同盟関係が成立することになったのです。
このように対立関係が解消されたものの、最後までこの二つの王国が統一されることはありませんでした。
 北イスラエル王国は、ホシェア王の時代にアッシリアからの侵攻により、一旦は服従したものの謀反を企てたとして王を収監、そしてアッシリア軍の包囲により首都は陥落、さらに住民は移住を余儀なくされることとなるのです。
 南ユダ王国は、ヨシヤ王の時代に領土拡大に成功、また異教崇拝を排除して祭儀をエルサレム神殿に集中にするなど、宗教改革を推し進めます。
しかし、バビロニアの台頭に対してエジプト王ネコがアッシリアを加勢したことで、それを脅威としてエジプト軍を阻止しようとするなか、ヨシヤ王はメギドの戦いで戦死を遂げます。その後、ヨヤキム王からヨヤキン王そしてゼデキヤ王と、反バビロニア政策を推し進めていきますが、バビロニアによる首都の包囲、さらには指導者の捕囚が続くこととなるのです。
 北イスラエル王国は紀元前721年頃、南ユダ王国は紀元前586年頃、それぞれ滅亡してしまいます。
次回は、このような分裂した王国の歴史の過程のなかで現れた預言者たちに目を向けていきましょう。

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第10回
 前回は、北イスラエル王国と南ユダ王国について、滅亡までの過程を学びました。
今回は、この間に現れた、神の言葉を伝える役割を担いつつ政治とかかわりを持った特徴ある預言者についてみていくことにしましょう。
まず、前編は北イスラエル王国の預言者について、そして後編は南ユダ王国の預言者についてみていきましょう。

北イスラエル王国の預言者
@エリヤ
 エリヤはアハブ王の時代に活躍した預言者です。首都サマリアの神殿において豊饒神バアルへの崇拝を積極的に推進する王に対して警告を発し続けました。
また自身もバアル神の預言者450人に対して、真実の神こそが犠牲の雄牛を焼き尽くすという信仰上の対決を挑み、勝利を治めます。
その後、神の山ホレブにて神の命を受けたエリヤは、農夫エリシャを後継者とします。そしてそのエリシャの前でエリヤは天に上げられたとされています。
 その後は、救世主であるメシア到来以前に、エリヤの再来があるとされるようになりました。

Aエリシャ
 エリシャはイエフ王の時代に活躍した預言者です。まだ将軍の立場にいたイエフはエリシャによって油を注がれ、王位を約束する旨の神の言葉を伝えられます。
その後クーデターによってイエフは王に就任、バアル神崇拝者の根絶を図るなど、政治的軍事的背景による宗教改革を推し進めていきます。
それらの意味において、エリシャは政治と深くかかわりをもった預言者であったことがわかります。

Bアモス
 アモスはヤロブアム2世の時代に活躍した預言者です。すでに社会的な不義や不正が横行していた北イスラエル王国の実情について厳しく批判しました。

Cホセア
 アモスと同じく、ヤロブアム2世の時代に活躍したのが預言者ホセアです。
外交における優柔不断な政策や、バアル神崇拝を厳しく批判しました。

預言者アモスやホセアの姿勢にみられるように、北イスラエル王国は滅亡し終焉へと至る道をたどっていきます。
そこには、預言者による警告を無視する独断的な政治、そして異教の神々を崇拝するという背信行為があったものと言わざるを得ません。

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第11回
 今回は、後編として南ユダ王国の預言者についてみていきましょう。

南ユダ王国の預言者
@イザヤ
 イザヤは、エレミヤ、エゼキエルと並んで大預言者と言われる中の1人です。
また旧約聖書イザヤ書の著者としても知られています。
 イザヤは、ウジヤ王の死去の年にあたる紀元前736年に、預言者として召命を受けます。
そして、国家の偽善と不正を非難するなか、神への信頼とメシア王国の希望を説いていきます。
特に後者については、ダビデ王家の子孫がメシアとして支配者となるメシア預言として、後のキリスト教に継承されることになります。

Aエレミヤ
 エレミヤは、祖国南ユダ王国の滅亡を見届けるという悲哀の生涯を送った預言者として知られています。
また、旧約聖書エレミヤ書において、エレミヤの伝記とその信仰を知ることができます。
エレミヤは異教崇拝の神殿を「強盗の巣」と呼ぶなど、過激な発言の一方で、祖国滅亡の過程において「神との新しい契約」を説いていきます。
この「神との新しい契約」について、新約聖書ではその成就をイエス・キリストにおいています。

Bエゼキエル
 エゼキエルは、紀元前597年の第1回バビロン捕囚の際、捕囚民の中にいました。
捕囚から5年目、預言者として召命を受けたエゼキエルは、南ユダ王国の滅亡とエルサレム陥落を預言します。
しかし、その後はイスラエル回復を預言、神はイスラエルと新しい平和の契約を結ぶとしました。

 前編、後編として、2回にわたって預言者をみてきました。
 次回は、バビロン捕囚からの帰還以後の歴史について学んでいきましょう。

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第12回
 紀元前539年頃、アケメネス朝ペルシアにより新バビロニア帝国が滅亡、ペルシアのキュロス王は、かつての南ユダ王国からバビロンに捕囚されていたユダヤ人の帰還とエルサレム神殿の再建を命じます。(南ユダ王国・バビロン捕囚については第8・9章を参照)
しかし、神殿の再建は前進することなく遅延が続きます。遅延の最大の要因として挙げられるのが、神殿の共同建設を申し出たもののそれを拒否されたサマリア人による妨害です。
アッシリア帝国による北イスラエル王国滅亡以降(北イスラエル王国については第8・9章を参照)
移住を余儀なくされた住民に代わって異邦人が定住、異邦人との婚姻によりサマリア人は混血の民としてユダヤ人より蔑視されていました。サマリア人の申し出をユダヤ人が拒否した理由はそこにあった訳です。
結局、帰還民による第2神殿は紀元前515年頃にようやく完成することになります。
 エルサレム神殿は再建されたものの、ユダヤ人を取り巻く環境は厳しいものがありました。
先ず、国土と人心の荒廃により、祖国再建の士気は低調となり、宗教的戒律は無視されていきました。さらに、近隣諸国との商業交易により、異民族との交渉と婚姻が増加することとなり、それらの結果、民族滅亡の危機が迫る事態となりました。このような緊急の事態を建て直すために改革を行ったのが、エズラとネヘミヤという2人の指導者です。
 祭司としてまた宮廷書記官としての立場にあったエズラは、異民族との婚姻は律法に反するものとし、異民族との婚姻の禁止と解消を断行します。それにより、律法を中心とした生活規範が確立されていきます。
 一方、エルサレム城壁修復工事の責任者としてエルサレムに派遣されていたネヘミヤは、エズラによる宗教改革の実質的制度化を進め、律法と祭儀による信仰生活の確立と、祭司と律法学者を中核とした政治国家を構築していきます。そしてエズラとネヘミヤの宗教改革によるユダヤ人の結束は、ユダヤ教の成立と継承という形で、今日に至っているのです。

 次回は、エルサレム神殿について今一度整理しておくことにしましょう。

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第13回
指導者モーセに率いられ、エジプトから脱出したイスラエル人。
荒野における長い彷徨の間、彼らは天幕生活をしていました。
そして神の命を受けたモーセの指示によって、天幕の神殿である幕屋を持つに至りました。
幕屋の至聖所には、神とイスラエルの民との契約のしるしである十戒が記された、2枚の石板を納めた契約の箱が安置されていました。
また幕屋は移動可能なものであり、ダビデの子ソロモンによってエルサレム神殿が建設されるまで、ある場所から別の場所へと移動を繰り返していました。
従って、国民的礼拝の中心地として、また国民統一の精神的拠点としての場が定着したという意味でも、神殿建設は大変意義のある事業であったといえます。
 以下、エルサレム神殿の歴史を簡単にまとめてみました。
 
紀元前10世紀頃
  (第一神殿)
ソロモンによって神殿が建設される
※新バビロニア帝国によって破壊される
紀元前515年頃バビロン捕囚の帰還民により再建される
(第二神殿)
紀元前20年頃ヘロデ王によって大改修が行われる
(第三神殿 ※ヘロデの神殿とも呼ばれる)
※ローマ帝国軍によって破壊される
現在神殿の西側が「嘆きの壁」として残存している
※天幕に安置されていた契約の箱は、第一神殿の時代まで残存していた。
しかし、それ以降、至聖所には何も存在しなくなった。
 以上、今回はエルサレム神殿について簡単に整理をしてみました。
 次回はルツという1人の女性に注目してみましょう。

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第14回
 ルツという女性の生涯を記した旧約聖書「ルツ記」は、同じく旧約聖書「士師記」と同時代にありながら、その内容は対照的で、1人の女性の堅い信仰と犠牲的な愛を記したものとして、また新約聖書に引き継がれるものとして、注目すべきところです。
ルツの登場には次のような背景があります。

1 夫エリメレクと妻ナオミには2人の息子がいた
2 2人の息子はそれぞれオルパとルツを嫁にした
3 夫と2人の息子が死去
4 説得によってオルパは帰郷するもルツは従わず
5 ナオミはルツと共に故郷ベツレヘムを目指した

 ベツレヘムに到着したルツは、食料を得るために、ナオミの夫であったエリメレクの親戚にあたるボアズが所有する麦畑で、落ち葉拾いを始めます。
実はこれには、姑に尽くすルツの事情を伝え聞いたボアズが、ルツのために穂を落としておくことを使用人に指示をしたという配慮があったのです。
 こうしたなか、ナオミはボアズとルツの結婚を強く望んでいました。
当時、夫が死去して妻のみが残された場合、死者の兄弟がその妻と結婚して、相続人を起こす必要がありました。
しかもこの律法は最も近い親類へと拡張されていて、これによれば、ボアズはエリメレクの最も近い親類ではないことが問題となったのでした。
そこでルツの贖い人であるより近い親類との話し合いの末、その親類がルツの引き受けを拒否したことから、ボアズはルツを正式に妻として迎え入れることができたのでした。
 妻となったルツは息子オベドを出産、彼は後のダビデ王の祖父となります。
つまりルツはダビデ王の曾祖母にあたるという訳です。
こうしてルツの子孫にダビデ王が誕生し、そのダビデ王の血統よりイエス・キリストが誕生するという新約聖書の内容に引き継がれていくことになるのです。
 次回は、これまでの内容について、そこから生じる幾つかの疑問を、Q&A形式によって明らかにしていくことにしましょう。

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第15回
 今回は、これまでの内容について、そこから生じる幾つかの疑問を、Q&A形式によって明らかにしていくことにしましょう。
Q1 イスラエル人がエジプトから脱出後、カナンの地に至るまで、40年という長い彷徨を経なければならなかったのはなぜでしょうか。
A エジプトを出発したイスラエル人は、モーセと神に不平を洩らすなど、不信仰を繰り返します。
これは出発してから後の疲労の蓄積や、カナンの地の住民への恐れも災いしていたようです。
しかし、神はそのようなイスラエル人の態度を見逃すことはありませんでした。
その意味では、40年という長い彷徨は、イスラエル人に対する神の裁きとして捉えることができます。
また、40年は歴史としての40年という意味だけでなく、今日において1人のクリスチャンの成長の過程に要する時間として捉えることもできます。
乳と蜜の流れるカナンの地は溢れ流れ出す恵みの地であることを意味します。
その恵みを隣人に惜しみなく分け与えるクリスチャンとしての生き方と重ねることができるところでもあるのです。

Q2 モーセが神に命じられるままにシナイ山を登り、守るべき戒律が記された2枚の石板を授けられている間、イスラエル人はどういう状態だったのでしょうか。
A モーセは40日間シナイ山に留まることになるのですが、その間、リーダー不在の不安が鬱積していたイスラエル人は、帰りの遅いモーセに対してついに不満を爆発させ、偶像を造りそれを崇拝するなどの行為に至ります。
ここにもイスラエル人の信仰の弱さを見ることができます。

Q3 モーセがカナンの地に足を踏み入れることができなかったのはなぜでしょうか。
A 神に対する不信仰について、モーセも例外ではありませんでした。
旧約聖書「申命記」よると、モーセがイスラエル人の為に岩から水を導き出した時、神の栄光を表さなかったからとの記述があります。
結局、モーセは自らの不信仰だけではなく、イスラエル人の不信仰をも背負う結果になったと言えます。

Q4 「油を注ぐ」「油を注がれる」とはどういうことでしょうか。
A これは、神の命令による聖別を意味するものです。つまり、神に選ばれたしるしとしての行為ということです。

Q5 ダビデ王家の子孫がメシアとして支配者になるメシア預言とはどのようなものでしょうか。
A ダビデの子孫による理想とする時代の到来は、新約聖書の内容に繋がる重要なところです。
詳細は次回以降に譲ることにしますが、旧約聖書「詩篇」には永遠の王による栄光に満ち満ちた統治についての記述があります。
またメシア預言の書とされる旧約聖書「イザヤ書」においても、メシアの神聖についての多くの記述が見られます。
平和と正義、公正、全てにおいて調和が保たれる社会の到来を、人々が待望していたということがわかります。

Q6 なぜルツはボアズの所有する土地で落ち葉拾いを始めたのでしょうか。
A ルツが落ち葉拾いを始めたのは食料を得るためでした。
当時の律法では、収穫時において、土地を持たない寄留者や貧しい者は、落ち葉を拾う権利が認められていました。
姑に尽くし見知らぬ国にやって来たルツに、ボアズが十分に配慮したことは学んだとおりです。
愛情に恵まれ、子孫にも恵まれたルツの生涯を通して、堅い信仰と犠牲的な愛を知ることができます。
次回からは、新約聖書の時代について学んでいきましょう。

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第16回
 今回から新約聖書の時代に入りますが、その前に新約聖書の全体について簡単に触れておく必要があると思います。
 新約聖書とは、キリスト教の教義の基準として編纂されたもので、全体が27巻からなります。
そこには、イエス・キリストの生涯、またイエス・キリストの死後の宣教活動などが記述されています。
その構成は次のようになっています。

 構成
1 福音書4巻(マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネ)
 イエス・キリストの生涯・その教え・そのわざ・受難について記述されている。
※福音とは・・・人類への良い知らせという意味

2 宣教についての記録1巻(使徒の働き)
 イエス・キリストの弟子であったペテロとユダヤ教から改宗したパウロの宣教に基づく、初期キリスト教会について記述されている。

3 パウロの手紙13巻(ローマ・コリントTU・ガラテヤ・エペソ・ピリピ・コロサイ・テサロニケTU・テモテTU・テトス・ピレモン)
 パウロから信徒や教会に宛てて書かれた手紙で、信仰の導きや激励などが記述されている。
 改宗後、パウロはローマ世界へキリスト教を広めた。

4 公同書簡8巻(ヘブル・ヤコブ・ペトロTU・ヨハネTUV・ユダ)
 特定の個人や教会に宛てて書かれたものではない手紙
5 黙示の書1巻(ヨハネの黙示録)
 千年王国の到来と神の最後の審判、イエス・キリストの再臨による救済について記述されている。
 ※千年王国とは・・・イエス・キリストとかつてキリストに忠誠を誓い殉教した者たちの統治による平和な時代をいう。
この間、悪魔は封印されるとしている。

 このように見ると、新約聖書はキリスト教の土台となる書物であるということが理解できます。
次回は、イエス・キリストの誕生について学んでいきましょう。

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第17回
 イエス・キリストは、ガリラヤの大工であったヨセフと、その婚約者のマリヤの間に生まれました。
イエス・キリストの誕生について、福音書では次のような記述があります。
 マリヤのもとに天使ガブリエルが現れ、処女のまま聖霊によって身ごもることが伝えられます。マリヤは驚きます。
しかし彼女は信仰によってそのことを受容していきます。それは生まれる男の子が聖なる神の子であると伝えられたからです。
 一方、ヨセフはマリヤが姦淫の罪に問われることを強く恐れます。
そのヨセフのもとにも天使が現れ、それによりヨセフは天使がマリヤに伝えた内容を理解したのです。
 天使がマリヤとヨセフに伝えた内容は、旧約聖書の預言にインマヌエルの誕生として記述されていたことでもありました。
インマヌエルとは神はわれらと共にという意味です。このようにして、ヨセフとマリヤは男の子の誕生を待ち望むことになったのです。
 ところで、当時はローマ皇帝による戸口調査が行われようとしていた時期でした。
それにより領民は出身地への帰還を余儀なくされていました。同じくヨセフとマリヤも出身地のベツレヘムへと向かっていていました。
ようやくベツレヘムに到着したものの、どの宿も満室で、結局ヨセフとマリヤは馬小屋で夜を明かすことになりました。
そしてこの馬小屋こそが、イエス・キリストが誕生した舞台となったのです。
 イエス・キリストの誕生は、天使によって野宿中の羊飼いたちに告げられました。
それにより、羊飼いたち、さらには聖なる神の子の誕生を示す星を見た東方の博士たちはイエス・キリストに会うためにベツレヘムへと向かうことになります。
 現在、受胎告知のあったとされる場所にはナザレ受胎告知教会があり、処女受胎があったとされる場所にはベツレヘム聖誕教会があります。
馬小屋での誕生、誕生を告げられたのが名もない羊飼いたちであったこと、これらはイエス・キリストの生涯を追う上で、実は大変重要な事実なのです。
このことについては、今後回を重ねる中で明らかにしていくことにします。
次回は、洗礼者ヨハネとイエス・キリストの公生涯の始まりについて学んでいきましょう。

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第18回
 イエス・キリストが宣教を開始する以前、神の国が近づいたことを人々に伝え、ヨルダン川で悔い改めの洗礼を施していた人物がいました。
この人物こそが洗礼者ヨハネです。ヨハネのもとには多くの人々が訪れ、ヨハネは人々から絶大な支持を受けていました。
そしてついにイエス・キリストもヨハネから洗礼を受けることになります。

洗礼者ヨハネについては、新約聖書に次のような記述があります。
「このヨハネは、らくだの毛の着物を着、腰には皮の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった。」マタイ3:4
 洗礼後、イエスは荒野において40日間の断食を行い、その後悪魔の挑発を受けます。
その挑発を撥ね退けたイエスは、いよいよ宣教活動を開始することになります。
 一方、洗礼者ヨハネはヘロデによって逮捕、その後斬首刑に処せられてしまうものの、ヨハネの活動は宣教を開始したイエスによって見事に継承されていくことになります。
ところで、神の子として生まれたイエスが、なぜヨハネから洗礼を受ける必要があったのか、疑問が残るところです。
これには次のような意味があります。まず洗礼は悔い改めの出発点であるということです。
もちろんイエスには悔い改めの必要はありません。むしろその必要があるのは私たち人間です。にもかかわらず、ヨハネから悔い改めの洗礼を受けるということは、イエス自身が悔い改めのお手本としての姿勢を人々に示し、それを貫こうとしたということ、そこに大きな意味があるのです。
新約聖書には次のような記述があります。
「そして、天から声がした。『あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。』」マルコ1:11
これは、ヨハネから洗礼を受けたイエス・キリストを祝福する神の声についての記述です。
これにより、イエスがヨハネから受けた洗礼が、神の祝福のもとでのものだったことがうかがえます。
次回は、イエス・キリストの弟子集団の形成について学んでいきましょう。

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第19回
 悪魔の挑発を撥ね退けたイエス・キリストは、ガリラヤ湖畔にあるカペナウムを拠点に宣教を開始します。そしてそこで弟子集団を形成することになります。

@2人の兄弟、後にペテロと呼ばれるシモンとアンデレ
 漁の途中であった2人の兄弟にイエスは次のように語ります。
「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」マタイ4:19より一部参照
 2人の兄弟は漁の途中であったにもかかわらず、網を捨てイエスに従います。

A2人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとヨハネ
 イエスは父と共にいた2人の兄弟に自分に従うよう語ります。漁の途中であった2人の兄弟は、船も父も残しイエスに従います。
 ここで見られる4人の漁師の共通点は、全てを捨ててイエスに従ったということです。

 彼らがいかにイエス・キリストの権威に突き動かされたかがよくわかる場面です。
さて、その後もイエスは着実に弟子集団を形成していきます。そして、ピリポ、バルトロマイ、トマス、マタイ、アルパヨの子ヤコブ、タダイ、シモン、ユダが次々と弟子集団に加わることになります。
汚れた霊どもを制する権威を授けられた12人の弟子は、使徒としての心得とやがて来る迫害について、イエスから教えを受けます。
そしてイエスの使徒として生涯従うことになるのです。
ちなみに、12という数字はユダヤにおける完全数を意味します。
 次回は、イエスが説いた教えについて、福音書に見られるたとえ話から学んでいきましょう。

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第20回
 イエス・キリストは、神の国がどのようなものであるかについて、たとえ話を用いて人々に伝えました。
イエスがたとえ話を用いた理由はふたつです。
ひとつは、頑なな心を持つ人々や悪意をもってイエスに難癖をつける人々から、神の国の奥義を隠すということです。
もうひとつは、神の国を求める謙遜な心を持つ人々に、その奥義を明らかにするということです。
神の国を求める人々に対して、イエスは世の中にある実例を引き合いに出し、わかりやすく教えを説いたのでした。
 福音書では数多くのたとえ話を見ることができます。
@成長する種のたとえ
  マルコ4:26〜29
 人が土に種をまく。種は芽を出して成長する。人が知らない間に、土はその穂に豊かな実を結ばせる。
実が熟し、そこに鎌を入れる。それこそ収穫のときである。
A成長するからし種のたとえ
マタイ13:31〜32 マルコ4:30〜32 ルカ13:18〜19
 からし種はどんな種よりも小さい。しかしどんな野菜よりも成長し、大きな枝を張る。神の国とはそのようなものである。
B種を蒔く人のたとえ
  マタイ13:1〜9 マルコ4:3〜8 ルカ8:11〜15
種を蒔く人が蒔いた種が、道端に落ちた。鳥はそれを食べてしまった。他の種は石だらけの土に落ちた。
それは根がなく枯れてしまった。また他の種がいばらの中に落ちた。
それはいばらにより塞がれてしまった。
別の種は良い地に落ちた。それは30倍、60倍、100倍の実を結んだ。
神の国を受け入れることは、まさに実を結び成長するという意味である。

紹介した3つのたとえ話は、聖書からの直接の引用でなく、その内容を簡潔にまとめたものです。
この3つのたとえ話からでも、神の国が壮大なものであること、そしてそれを受け入れることがどれほど必要なのかをおおよそ知ることができます。
神の国ははるか彼方にあるのではなく、私たちが生きる現実の中に存在するということ、まさに神は私たちのなかに働かれる存在であるということがわかります。
次回は、イエスの奇跡について、福音書から学んでいきましょう。


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第21回
 福音書4巻(マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネ)には、イエス・キリストの奇跡についての記述が数多く見られます。
中でも最初に記されたとされるマルコでは、イエスのわざ、すなわち奇跡について、より具体的な記述を見ることができます。
そして、イエスが行った奇跡の大半が、癒しであったことを知ることができます。
ここでは、マルコにあるイエスの奇跡、とりわけ癒しについて見ていくことにしましょう。
 イエスの最初の奇跡は、男に取りついた汚れた悪霊を、叱るという方法で追い払うというものです。この奇跡により、イエスの評判はたちまち広がっていきます。
マルコによると、イエスによる癒しはこれだけにとどまらず、発熱した女性の手を取って癒したことや、重い皮膚病の者の手に触れて癒したことなど、およそ16もの癒しを行ったとあります。
イエスの癒しに共通することは、年齢や性別や地位に囚われることのない、全く分け隔てのないものであったということです。
例えば、当時の重い皮膚病はけがれを意味するもので、人々は病人に触れることさえしませんでした。
ところが、イエスは積極的に触れることで病人を癒しへと導いたのでした。そのようなイエスの行為は、病と共に差別にも苦しむ病人の心に、驚きと同時に平安をもたらせたのでしょう。イエスによってもたらされた病人の心の変化というものが、癒しへと繋がっていったといえるのかもしれません。
マルコに限らず、福音書ではイエスの宣教活動と奇跡とを切り離すことのできないものとして捉えています。ちなみに、マタイでは癒しを行うイエスがダビデの子と呼ばれています。
このように、福音書からはイエスの行った奇跡がいかに関心の高いものであったかを伺うことができます。
さらにイエスの宣教活動は続いていきます。次回は、群衆を前にしての山上の説教について、学んでいきましょう。

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第22回
 山上の説教は山上の垂訓とも言われ、イエス・キリストが山上で群衆を前にして語った教えのことです。
もちろん、群衆には12人の弟子も含まれていました。この山上の説教についてはマタイ5〜7章に記されており、なかでも5:3〜10の各節において「〜者は幸いです」とある箇所は、八福の教えとも呼ばれています。
ここでは、この八福の教えに注目して、それぞれの箇所を整理しておくことにします。
@心の貧しい者は幸い→天国はその人たちのものだから
A悲しむ者は幸い→慰められるから
B柔和な者は幸い→地を受け継ぐから
C義に飢え渇く者は幸い→満ち足りるから
Dあわれみ深い者は幸い→あわれみを受けるから
E心のきよい者は幸い→神を見るから
F平和をつくる者は幸い→神の子どもと呼ばれるから
G義のために迫害されている者は幸い→天の御国はその人たちのものだから
ところで、なぜ@にある「心の貧しい者」が幸いなのでしょうか。
ここにある「心の貧しい人」とは、拠り所となるものや誇るものもなく、豊かさや愛もない、神にすがる他ない人、つまりはただひたすら神の救いを求める他ない人をいいます。
そして救いを求めることで、神の恵みに感謝して生きるという基本ができあがり、さらにはその幸いのなかで心が豊かにされていくという、言わば信仰の基本に結びつくというわけなのです。
したがって、@〜Gはイエス・キリストを通して与えられる神の契約の恵みということなのです。
このように見ると、第3回で学んだモーセの十戒が旧い契約であるのに対し、イエス・キリストが山上の説教で語った教えは新しい契約であるということがわかります。
つまり、モーセを通してイスラエルの民に与えられた契約が旧約であり、イエス・キリストによって与えられた契約が新約となるわけです。
旧約という律法によってイスラエルの民は約束の地カナンにたどり着くことができました。
そして、今度は神の恵みの下に生きる民としての新約、それがイエス・キリストによって結ばれたということなのです。
次回も続けて山上の説教について学ぶことにしましょう。

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第23回
 前回は山上の説教における八福の教えについて、なぜ「心の貧しい者」が幸いなのかを学びました。そしてそれは信仰の基本であるということを知ることができました。その意味では、山上の説教は信仰を持って生きる者たちへの直接的なメッセージであるとも言えます。聖書の中にあるひとつひとつの言葉と生活、また信仰と生活、それらの明確なつながり、これが山上の説教の核心部分なのです。
 心が豊かにされていくことで、私たちの生活は変ります。生活が変るということは、私たちが新しくなるということです。新しくなった私たちは神の恵みに感謝し、そして喜んで生きる者になる、つまり八福の教えにある幸いな者として生きていくことになります。
元々心の貧しい私たちの心が豊かにされていく過程には、何よりも神の恵みが必要です。私たちは恵みによって生かされ、そして支えられ、喜びの内に生活していくわけです。
 ところで、今回「山上の説教」について注目したいことは、説教の場所が山上であったということです。かつてモーセが与えられた十戒は、平地ではなくシナイ山という場所でした。つまり、マタイにおける山上の説教についての記述は、シナイ山における十戒と重ね合わされているともいえるのです。
 イエス・キリストの宣教は続きます。一方で、宗教的指導者や政治的指導者との軋轢も深まっていきます。
 次回は、さらにイエスの宣教活動について学んでいきましょう。


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第24回
 宣教が続く中で、イエスの律法への姿勢が明らかになっていきます。そして、それに伴って、イエスとユダヤ教の指導者である律法学者との溝は次第に深くなっていきます。例えば安息日については、律法では安息日である土曜日には仕事をすることは禁じられていました。しかし、イエスは安息日に重い障害をもった人や病に苦しむ人を癒しました。イエスの考えはこうです。
「安息日は人のために定められたものである。人が安息日のためにあるというのではないのである。たとえ安息日であろうとも、目の前に重い障害を持った人や病に苦しむ人、困っている人がいるならば、癒しの手を差し伸べるべきではないか」
イエスのこの考えに律法学者は反発します。律法を遵守すべきであるという立場に立つ律法学者にとって、イエスの考えや行いは到底受け入れられるものではなかったのです。
もちろん、イエスは律法を無視することをよしとした訳ではありません。ただ、当時の律法学者、諸派のうちのパリサイ派やサドカイ派に属する学者たちは、人に見られるために律法を守っていました。つまり、神の評価ではなく人間の評価を得るためのもの、それはまさに人間中心主義の律法だったのです。額に汗して働く人の休息としての安息日が、いつしか形式化し形骸化することで、安息日に休まなければ律法違反になるという、むしろ人を縛りつけてしまう規定になってしまっていたのです。
さらに、イエスはエルサレム神殿における体制についても抗議を行います。次回は、この抗議行動について学んでいきましょう。

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第25回
 ユダヤ教の祭司や律法学者との対立が深まる中、イエスはエルサレムに入って行きます。
福音書では、イエスはロバに乗ってエルサレムに入ったとの記述が見られます。民衆に歓迎されてエルサレムに入ったイエスでしたが、その思惑は民衆とは大きくかけ離れたものでした。民衆がイエスに期待したこと、それはユダヤ社会における政治的指導者としての姿でした。一方、イエスのエルサレム入りは、もはや祈りの場ではないエルサレム神殿の実情を憂いてのものだったのです。
ダビデ王が建設した都市であるエルサレムには、かつてはソロモン王による壮麗な神殿がありました。
その後の破壊により、当時の神殿はヘロデ王による未完成のままの状態でした。そしてそこは、ユダヤ教の特権階級であった祭司や律法学者による、腐敗と堕落した実情そのものでした。神殿税の納入などによって私腹を肥やす権力者、神殿内での商売人や両替人たちの横行など、目に余る悪の巣窟と化した神殿の実情がそこにあったのです。
そのような状況の下、イエスには宣教の本義を明確にする必要性がありました。それは、エルサレム神殿の宮清めを行い、祈りの場としての神殿を取り戻すことでした。しかし、イエスの行動は逆にユダヤ教特権階級の反感を増大させることになります。そしてそれがイエス処刑計画へとつながっていくことになるのです。
次回は、イエスとその弟子との最後の晩餐について目を向けていきましょう。

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第26回
 ユダヤ教の祭司や律法学者との対立が深まる中でのイエスによるエルサレム神殿の宮清めは、ユダヤ教特権階級の反感をますます増大させ、さらにそのことがイエスの逮捕と処刑という計画へとつながっていきます。そしてユダヤの大祭である過越の祭りに合わせるように、いよいよイエスの身に受難の時が迫ります。
 緊迫の度が増す中で、イエスは弟子を集めて、最後の晩餐の時を持ちます。この最後の晩餐は、レオナルド・ダヴィンチの絵画でも知られるように、あまりにも有名な場面です。ダヴィンチの作品では、イエスとその弟子は椅子に座っていますが、当時のユダヤでは地べたに体を横にして食事をとるのが習慣でした。
 まずイエスはパンを取ります。そしてそのパンがイエス自身の体であることを認めます。次にぶどう酒の盃を取ります。さらにそのぶどう酒が十字架で流されるイエス自身の血であることを認めます。こうした最後の晩餐でのパンとぶどう酒の意味づけについては、カトリックではミサの聖体拝受の秘蹟において、またプロテスタントでは聖餐式において、今日までそれぞれ受け継がれています。
 さて、この最後の晩餐で、イエスは12人の弟子の中で自分を裏切る者がいるという内容の予告を行います。また、イエスを見捨てないと言い切ったペテロに対しては、「今夜、鶏が泣く前に三度私のことを知らないと言う」との予告まで行います。
 その後、イエスはエルサレム市街地東側にあるオリーブ山の北西麓のゲッセマネ(オリーブ油搾り場の意味)に向かい、苦悶の祈りを神に捧げます。それは死を目前にした悲しみに悶える中での祈りでした。そこでイエスは神のみ心に従うこと、それを受け入れることを誓うのです。
 三度目の祈りを終えたイエスにいよいよ運命の時が来ます。
次回は、イエスの逮捕と十字架での処刑という受難について目を向けていきましょう。

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第27回
 今回から2回にわたって、イエスの逮捕と十字架での処刑という受難について目を向けていくことにしましょう。
 迫り来るイエスの逮捕。それに手を貸した人物がいます。前回、最後の晩餐でイエスは弟子の中に自分を裏切る者がいるという内容の予告を行ったことを学びました。イエスを裏切る者。実はその人物とはイスカリオテのユダのことでした。銀30枚でイエスの身柄を引き渡すという約束を交わしたユダは、イエスを逮捕しようする者たちと共にその元に向かいます。そしてイエスに近づき挨拶の接吻をします。それはひとつの合図でした。その合図によってイエスは無抵抗のまま逮捕されることになります。
さらには、イエスの逮捕により自分の身に危険が及ぶことを恐れるあまり、他の弟子は次々とイエスを見捨てて逃げてしまいます。
 連行されたイエスを待っていたのは、大祭司、パリサイ人、サドカイ人たちによる不当な裁判でした。裁判の過程で、イエスは神を冒涜した罪で告発されます。ところが、さらにイエスは当時ローマの総督であったピラトの元に連行されます。これはイエスを国事犯として十字架につけようというひとつの策略でした。当時の処刑は十字架刑が最も残虐かつ不名誉なものでした。イエスを逮捕し告発した者たちの狙いは、この最も残虐で不名誉なやり方でイエスを処刑するということにあったのです。一方で、ピラトにはイエスを処刑する理由が見当たりませんでした。しかし、目先の利益や圧力に扇動された民衆の暴動を恐れたピラトは、ついに十字架によるイエスの処刑に賛成をしてしまいます。
 鞭で打たれ茨の冠をかぶされたイエスは、民衆に嘲笑されながら、重い十字架を背負い、ピラトのいる官邸から郊外にあるゴルゴタの丘まで歩いて行きます。ちなみに、ゴルゴタとは、骸骨のしゃれこうべの意味があります。
 次回は、十字架を背負ったイエスの悲しみの道行から処刑までをみていくことにしましょう。

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第28回
 逮捕、そして連行。その後の不当な裁判。重い十字架を背負い、ゴルゴタの丘までの道を歩くイエス・キリストの姿。それはまさに悲しみの同行でした。
 午前9時、イエスは十字架につけられます。その前に、意識を麻痺させて、苦痛を和らげるためのぶどう酒を勧められたものの、イエスはそれを拒否します。イエスの頭上には「ナザレ人イエス、ユダヤの王」という罪状書きが掲げられ、同時に2人の強盗が、イエスの左右それぞれに十字架につけられました。
 昼の12時以降、次第に周囲は暗くなっていきます。そして暗闇の中、午後3時にイエスは絶命します。これらのことは、福音書に詳しく記されています。こうして、イエスはゴルゴタの丘で最期を遂げるのです。
 夕方、信仰の厚い最高法院議員であったヨセフが、イエスの遺体の埋葬をピラトに願い出て許可されます。当時、処刑された者は、死後数日間は十字架上でさらし者にされていました。イエスの遺体を受け取ったヨセフは、遺体に香油を塗り埋葬します。
 ところが、後日イエスの遺体に香油を塗るために墓に向かった母マリヤとマグダラのマリヤとサロメの3人は、思いがけない出来事に遭遇することになります。
 次回はその後に起こったイエスの復活について目を向けていきましょう。

※ゴルゴタの丘とされる場所並びにヨセフがイエスの遺体に香油を塗ったとされる場所は、現在エルサレムの聖墳墓教会の内に見ることができます。

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第29回
 イエスの遺体に香油を塗るために墓に向かった母マリヤとマグダラのマリヤとサロメの3人が遭遇したものは何だったのでしょう。それはあまりにも思いがけない出来事でした。イエスの墓の入り口を塞いでいたはずの大きな石は脇にやられ、しかも墓の中は空であり、さらに、3人はその場にいた白くて長い着物を着た若者に、イエスが復活したことを知らされたのです。
 イエスの復活。新約聖書の原語であるギリシア語では、復活とは「立ち上がる」を意味する言葉です。まさに死をも超えたイエスの復活。イエスが逮捕されるや否や、そこから逃げ去った弟子たちに、復活のイエスというが現実のものとして現れることになります。福音書では救い主としてのキリストであるイエスの復活ついて、それぞれの記述を見ることができます。
 イエス・キリストの、死をも超えた復活により、弟子たちは新たな活力を与えられます。そして、使徒としてイエス・キリストの働きを継承する運動を起こし、さらには迫害や殉教をも恐れない、確固たる信仰を持った宣教を展開していくことになるのです。
 イエスの復活は、キリスト教信仰の基礎であり、同時に希望でもあります。次回からは、初代教会の誕生からその発展について学んでいきましょう。

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第30回
 イエス・キリストの、死をも超えた復活により、新たな活力を与えられた弟子たちはエルサレムに集結します。さらにペテロを筆頭として、イエス・キリストの働きを継承する運動により、ここに初代キリスト教会が誕生することになります。そして財産を共有化することで、貧富の差が生じない共同生活を営んでいた信徒たちは、自らの信仰を貫きながら、教会を拡大させていきます。
 しかし、教会の拡大と成長に伴い、様々な問題も浮上してきました。特に、日々の配給について、アラム語を話すユダヤ地方出身の信徒から、ヘブル語を話すギリシア語圏出身の信徒への不満が高まったことで、教会は大きな問題を抱えることになったのです。
 そこで、ペテロを中心とする教会の指導者は、ひとつの決断を行います。それは、教会での生活について、それを管理するための7人の執事を任命するというものでした。任命された7人は、執事として教会運営の実務に携わり、また同時に宣教にも関わり、大きな役割を果たすことになります。なかでも、ステパノは目覚しい宣教活動を展開していきます。しかし、ステパノの力強い説教はユダヤ教徒からの反発を買い、捕らえられたステパノは石投げの刑に処せられ、殺されてしまいます。ステパノの壮絶な死。それは信徒としての殉教の死だったのです。
 実は、そのステパノの死を群集に交じって見ていた人物がいました。その人物こそが、ユダヤ教パリサイ派にあってキリスト教を迫害し、後にはキリスト教大伝道者となるパウロ(当時サウロ)の姿だったのです。
 次回は、パウロの回心からその伝道旅行について学んでいきましょう。

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第31回
 パリサイ派の教育を受けたサウロは、イエス・キリストをメシアと信じるキリスト教徒に圧力を加えて妨害することに熱心な人物でした。 特にステパノの殉教以降は、エルサレムにあった教会の信徒を迫害し、エルサレムから逃れた地方の信徒にまでその手を伸ばそうとしていました。
 ある日、ダマスコへ向かっていたサウロに不思議なことが起こります。「使徒の働き」にはそのことが詳しく記述されています。強烈な光に照らされ、その中でイエスの声を聞いたとされるサウロ。 その時突然見えなくなったサウロの目は、彼の回心によって元通りに見えるようになったとあります。
 ユダヤ教という宗教の枠組みを超えた永遠の神との出会い。それによって新たな視点が生まれ、新たな生き方を追求するに至ったパウロ。 ここに迫害者サウロではない伝道者パウロが誕生したのです。
 その後、各地方での伝道活動を開始したパウロは、回心から約15年を経た47年頃、最初の伝道旅行に向かいます。
 大伝道者パウロ。次回は、その幾多の危険と苦難を乗り越えたパウロの伝道旅行について学んでいきましょう。
 現在、ダマスコでは聖パウロの教会を見ることができます。

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第32回
 エルサレムでペテロやヤコブなど使徒との会談を終えたパウロは、故郷であるタルソでキリスト教徒としての生活をしていました。 その後、エルサレム教会は、急成長したアンテオケ教会の指導者としてバルナバを選び、バルナバはその同労者にパウロを選びます。 こうして、2人はアンテオケ教会の指導にあたることになったのでした。「使徒の働き」では、この地で初めてキリスト教徒がクリスチャンと呼ばれるようになったと記しています。
 アンテオケ教会が整備されるなか、パウロとバルナバに新しい使命が与えられます。それは伝道のための旅に出ることでした。 第一次伝道旅行は47〜48年にかけて、小アジアがその対象となり、その後パウロは新たな協力者であるテモテを伴い、49〜52年にかけては、小アジアとギリシア方面への第二次伝道旅行へ、さらに53〜56年にかけては、同じ小アジアギリシア方面への第三次伝道旅行へ出かけていくことになります。 また、これらの伝道旅行の目的は、ユダヤ人以外の異邦人への伝道にありました。頑ななユダヤ人にではなく、真摯に耳を傾ける異邦人にこそ神の言葉を伝えるべきであるという使命が、パウロを突き動かし、伝道旅行へと駆り立てたのだといえるのかもしれません。
 しかしながら、パウロの伝道旅行は多くの危険と困難との闘いでもありました。伝道の成果としての数多くの教会が誕生する一方で、教会からの反発もあり、さらには迫害や投獄という事態にも遭遇しました。それでもパウロは使命に向かって突き進んでいきます。そして、ローマへの旅を計画します。 そこで、ローマ訪問に先立ち、ローマ教会に宛てて書いた手紙こそが「ローマ人への手紙」であり、それは現在私たちがパウロの思想を理解する上で大変重要なものとなっているのです。
 次回は、パウロの思想について学んでいきましょう。

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第33回
 ローマ訪問に先立ち、ローマ教会に宛ててパウロが書いた手紙である「ローマ人への手紙」には、パウロの思想を理解する上で大変重要なことが記されています。なかでも、信仰による義認は、後のルターによる宗教改革の源となり、さらにプロテスタントの中心的な思想と位置付けられるものとなりました。
「人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。」ローマ3:28>
 <イエス・キリスト以前の時代において義とされていた律法、つまり決して破ってはならないとされていたものは、イエス・キリストが現れて以降、豊かな神の恩恵がそれに代わるものとなった。私たちはその神の恩恵を感動と喜びを持って受け取り、さらに愛をもって他人に与えればよいのである。神から離れてしまう(罪)という性質を備える私たちは、また神に立ち返る(悔い改め)性質をも備えているという意味で、十字架での死とそこから立ち上がった(復活)イエス・キリストによって、私たちキリスト者はまさに自由となり得たのである。>

 信仰の原点を示したパウロ。その働きと思想は時代を超えても私たちに受け継がれているものといえます。

 キリスト教伝道者となったことを「裏切り者」とみなす人たちや、異邦人伝道に反対する人たちなどの勢力によって、エルサレムで捕らえられたパウロは、自らが市民権を持つローマでの裁判を望みます。そのままローマに搬送されたパウロ。そこはパウロ終焉の地と考えられています。


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第34回
 死をも超えたイエス・キリストの復活により、新たな活力を与えられた弟子たちのエルサレム集結。ペテロを筆頭として、イエス・キリストの働きを継承する運動による初代教会の誕生。ユダヤ教という宗教の枠組みを超えた永遠の神との出会いによるサウロの回心と伝道者パウロの誕生。そして異邦人への伝道。こうしたひとりひとりの情熱が、キリスト教そして教会の拡大へとつながっていきます。
 しかし、こうした拡大はキリスト教を拒絶し受け入れようとしない人たちにとっては望むところではなく、時に権力者は大規模な迫害を行い、キリスト教そして教会のさらなる拡大を阻止しようとしました。64年、ローマ皇帝ネロはローマで起こった大火事件をキリスト教徒の責任であるとして大規模な迫害を行いました。こうしたネロの迫害により、ペテロやパウロも殉教したとされています。また、後にローマ皇帝の座についたドミティアヌスやディオクレティアヌスもキリスト教徒への迫害を続けました。特に、ディオクレティアヌスは、皇帝としての権力を神聖化する過程の中でキリスト教徒との対立を深め、それを理由に大規模な迫害を行いました。この迫害によりキリスト教・教会史において最も多くの信徒が殉教したとされています。
 こうした権力者による迫害は、313年、皇帝コンスタンティヌスの「ミラノ勅令」によってキリスト教が公認されるまで続けられることになります。
 次回は、皇帝コンスタンティヌスによるキリスト教公認について学んでいきましょう。

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第35回
 権力者による迫害の時代を経て、313年、皇帝コンスタンティヌスの「ミラノ勅令」により、キリスト教はようやく公認されることになります。
 キリスト教の歴史においてとても重要な意味を持つ「ミラノ勅令」は「信教自由の勅令」ともいわれ、自分が選択した宗教を自由に信仰することができるとした内容のものでしたが、実際はキリスト教を手厚く保護するという意図が大いに含まれていました。
 例えば、キリスト教徒を要職につかせること、税金や兵役を免除すること、教会堂の建築を奨励し援助すること、全ての人がキリスト教を信仰すること、これらについての一般的勧告、また異教からキリスト教を保護するという理由によるビザンティウムへの首都移転、キリスト教の集会日である日曜日を休日とすることなどが次々に定められていきます。さらに325年には、キリスト教徒の間での教義論争を解決する目的で、最初の公会議が開催されます。
 こうして、皇帝コンスタンティヌスによって手厚く保護されたキリスト教は、その後皇帝テオドシウスによりローマ帝国の国教として新たな歴史的局面を迎えることとなります。
 次回は、皇帝テオドシウスによるキリスト教の保護について学んでいきましょう。

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第36回
 皇帝コンスタンティヌス保護されたキリスト教は、その後皇帝テオドシウスによりローマ帝国の国教となります。
 そもそも、ローマ帝国の教会は、三位一体(神・イエス・キリスト・聖霊)を認めるアタナシウス派と、それを認めないアリウス派が対立している状況にありました。325年の二ケーア公会議においては、アタナシウス派を正統として、アリウス派を異端とするニカイア信条が採択されたものの、アリウス派の影響は強く残っていました。
 ニカイア信条に忠実であった皇帝テオドシウスは、三位一体に反する信仰者を罰するという勅令によってアリウス派を弾圧、さらにキリスト教以外の信仰を厳しく禁じる政策を打ち出します。さらに、388年には古代ローマの宗教を廃絶する決議を提起、これが全会一致で議決されたことにより、ローマにおけるキリスト教は正式に国教として認められることになったのです。
 こうして、ローマ帝国の国教となったキリスト教は、ローマ帝国による強い支配と影響を受けることになります。
 次回は、国教化によるキリスト教会の変化ついて学んでいきましょう。

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第37回
 国教となったキリスト教は、ローマ帝国による強い支配と影響により、大きく変化していきます。
 まず、信仰の有無に関わらず、国民に対するキリスト教の強制によって、教会の性格はこれまでとは大きく異なるものとなり、そこでは国民の精神的営みの自由は全く失われ、教会は形式的なキリスト者で埋められていく結果となりました。
 次に、異教の神殿などは暴徒化したキリスト者によって破壊され、国民の心と身体に大きな傷を残すこととなりました。こうした異教に対する徹底した排除は、ローマ帝国の国家としての野望を如実に示すものだといえます。
 こうして、ローマ帝国のための宗教としてキリスト教が用いられたことで、迫害の中でも失われることのなかったその精神は、次第に形式的かつ形骸化したものへと変化していくことになります。
 395年、ローマ帝国は東西に分裂します。それにより、キリスト教はまた新たな歴史の波へと飲み込まれていきます。
 次回も、歴史に翻弄されるキリスト教並びにキリスト教会の歴史について学んでいきましょう。

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第38回
 395年、ローマ帝国は東西に分裂、歴史に翻弄されるなか、キリスト教は新たな局面に立つこととなります。それは、アウグスティヌスによってキリスト教神学の基礎が確立したということです。
 アウグスティヌス(354〜430年)は古代キリスト教の神学者であり、その思想は中世や近代における多くの神学者、またフリードリヒ・ニーチェや後の宗教改革の指導者であるカルヴァンやルターにも影響を与えました。なかでも、神は永遠という時間意識において存在するとした思想は、西洋思想の一部となり、また聖霊について神とキリストがその出処であるとした立論は、神学における聖霊論の基礎となりました。思想にとどまらず、信仰の実践面においても、宗教改革以降のプロテスタント思想に大きな影響を与えたとされます。アウグスティヌスによって確立したキリスト教神学の基礎は、まさに西洋思想全体及んだと言っても過言ではないでしょう。
 一方で、歴史の変遷はさらに続きます。476年、西ローマ帝国が滅亡、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)のギリシア化により、東西教会の分離も進んでいきます。東方教会と西方教会、いわゆる後のローマ・カトリックとギリシア正教会です。
 次回は、促進する東西教会分離の歴史ついて学んでいきましょう。

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第39回
 395年のローマ帝国分裂後、476年の西ローマ帝国滅亡という歴史の変遷のなか、東西の教会の交流は希薄になり、さらに東ローマ帝国(ビザンツ帝国)のギリシア化が進むなど、東西の教会の違いは鮮明なものとなります。例えば、教義の解釈、礼拝のあり方の違い、さらに教会組織についての違いなど、東西教会の差異はますます大きくなっていきます。
 726年、東ローマ帝国のレオ3世による聖像禁止令により、聖像崇拝についての論争が起こります。これにより、聖像を布教に利用しようとする西方教会と、聖像を禁止しようとする東方教会の溝がさらに広がります。また、政治と宗教の権力分離を掲げる西方教会と、教皇皇帝主義を掲げる東方教会の主張も大きく異なることとなります。
 こうしたなか、1054年、東西両教会のそれぞれが、西方の教皇と東方の総主教を相互に破門するという事件が起こります。この東西教会の相互破門という事件により、東西教会の分裂は決定的なものとなってしまいます。このことは、事実上西方のローマ・カトリックと東方のギリシア正教会との分裂ということになります。
 こうしてそれぞれの道を歩むこととなった東西の教会。これにより宗教分布にも異変が生じることになります。
 次回は、ローマ・カトリックの発展と十字軍遠征に至る歴史ついて学んでいきましょう。


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第40回
 ローマ・カトリックの構造は、教皇を頂点とする階層制の組織からなり、最初に教皇庁、次に大司教区と司教区に分かれ、当時これらは都市部に属していました。そこから、さらに教区、そして教会領と続き、これらは農村部に属していて、教区には司祭が置かれ、教会領の農奴には10分の1の税が課せられるという仕組みになっていました。
 東西教会の分裂後、教皇の権力は次第に増していきます。1077年には、それが明らかとなる事件が起こります。それが、教皇グレゴリウス7世による、神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ4世の破門です。
 ローマ教皇と、962年に成立した神聖ローマ帝国の皇帝が、叙任権闘争を繰り返していたこの時期、皇帝ハインリヒ4世は、教皇グレゴリウス7世により破門されます。結局、破門されたハインリヒ4世は、北イタリアのカノッサで教皇に許しを請うことになります。これがカノッサの屈辱といわれるものです。
 その後、教皇権はさらに伸張し、インノケンティウス3世の時には、絶頂期を迎えることになります。またその間、修行と生活を一体とする修道院や修道会も創立されていきました。
 こうしたなか、1095年のクレルモン宗教会議において、教皇ウルバヌス2世は十字軍の遠征を提唱します。その目的は、聖地エルサレムをイスラム教の諸国から奪還するということにありました。
 次回は、十字軍遠征について学んでいきましょう。


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第41回
 教皇権が絶頂期を迎えたなか、1095年のクレルモン宗教会議において、教皇ウルバヌス2世は十字軍の遠征を提唱します。その目的は、イスラム王朝のセルジューク朝から聖地エルサレムを奪還するということにありました。こうして、神のために武器をとるという呼びかけに応じた人々は、聖地エルサレムを目指したのです。
十字軍遠征は数回にわたって行われました。
第1回 1096〜1099年
第2回 1147〜1148年
第3回 1189〜1192年
第4回 1202〜1204年
第5回 1218〜1221年
第6回 1228〜1229年
第7回 1248〜1249年
第8回 1270年
(注 十字軍遠征については、その回数を7回とする説や8回とする説などがあります)

 宗教的な動機から始まった十字軍遠征も、回を重ねるごとに当初の動機が薄れてしまい、キリスト教を国教とする別の国家を攻撃し攻め落とすなど、教皇によって破門されるといった事態も起こりました。
 一方で、東西における人々の行き来により、文物の流通が盛んに行われた結果、14世紀に盛んとなったルネサンス運動の下地が完成したともいわれています。しかしながら、十字軍遠征による宗教的社会的疲弊が原因で、教皇権は次第に衰えを見せ始めていきます。
 次回は、16世紀に起こった宗教改革について学んでいきましょう。

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第42回
 16世紀なると、自由経済による近代国家の繁栄に伴い、ローマ・カトリックの拠点であるバチカンとの関係にも変化が見られるようになりました。各国家は自らの冨を国内に留めるため、バチカンとの関係を強固なものから希薄なものへと見直すようになっていったのです。そこで、ローマ・カトリックが考案したのが免罪符の販売でした。そこには、罪の償いを軽減するという免罪符の販売によって、減少する収入を賄い、係る費用を捻出するという目的があった訳です。
 このようなローマ・カトリックの姿勢を批判したのが、ドイツのマルティン・ルターです。1517年、ルターはローマ・カトリックに抗議して、「95ヶ条の論題」を教会の扉に貼り付けます。この動きはたちまち大きな反響を呼びます。その後、こうした宗教改革の波が各地に広がることになります。
 フランス出身のカルヴァンはスイスのジュネーブで独自の宗教改革を行います。イギリスでは国王のヘンリー8世の離婚問題がきっかけとなり、離婚を認めないローマ・カトリックとの対立を深めます。その結果、1534年、教皇により破門されたヘンリー8世により、イギリス国教会が成立することになるのです。
 こうしたプロテスタント勢力の拡大という危機的状況の中で設立されたのがイエズス会です。
 次回は、イエズス会の布教活動について学んでいきましょう。

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第43回
 1534年、イグナチオ・デ・ロヨラと6名の同志により、イエズス会は創設されました。同志の中には、後に日本への布教を行ったことで知られるフランシスコ・ザビエルも含まれていました。同じ頃、勢力を拡大するプロテスタントへの対抗改革がカトリックの側の運動として顕著になりつつありました。しかし、イエズス会はプロテスタントへの攻撃という目標は掲げず、まずカトリックの内部に目を向けるべきと主張、当時の教会のあらゆる問題について厳しい批判を展開しました。こうして、イエズス会の運動はヨーロッパ各地へと広がっていきました。
 発展に伴って、イエズス会は神学やその他の学問に係る高等教育の実践を積極的に行いました。また、布教活動を積極的に行うことで、プロテスタントの拡大を防ぐ役割をも担いました。特に世界各地での布教活動は、さらなるキリスト教の拡大に大きく貢献した歴史的事実です。
 1541年、インドのゴアに赴いたフランシスコ・ザビエルはその地でアジアへの布教の足掛りを作ります。そして1549年に来日、2年間の滞在で精力的な布教活動に取り組みました。その後、中国での布教を志したものの、その思いは実現することなく、この世を去ります。
 フランシスコ・ザビエルの日本への布教の成果は大きく、多くの日本人がキリスト教を信じるきっかけとなりました。しかし、その後は宣教師たちへの迫害による処刑や追放、さらにキリスト教への厳しい弾圧などにより、日本におけるキリスト教の発展は妨げられてしまうこととなります。

 時代に翻弄されながらも、発展を続けてきたキリスト教と教会は世界に広がり、多くの人に受け入れられ今日に至ります。時代によって、地域によって、キリスト教と教会は、少しずつ変容してきました。しかし、神を信じ、イエス・キリストを信じ、聖霊の働きを信じることに、何の変わりもありません。そこにこそ、キリスト教が普遍であるという証拠を見い出すことができるのです。

 神様からの豊かな恵みが全ての人にもたらされますように心からお祈り致します。(了)

※今後、新しいシリーズとして「日本のキリスト教史・教会史」を予定しています。

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