エクレシアグリーンフィールズ
  キリスト教史・教会史(日本編)



  
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キリスト教史・教会史
(西洋編)
New! 2013/1/29
第6回更新
第1回
第2回
[イエズス会の布教活動]
第3回
[豊臣秀吉のキリスト教政策]
第4回
[サン=フェリペ号事件]
第5回
[キリスト教迫害]
第6回
[開国その後]
第1回
 日本のキリスト教史・教会史を学ぶ上で、最初に見なければならないのは、そもそもキリスト教がいつ日本に伝来したかということです。実際には諸説があり、正式な形での説明ができないというのが現状のようです。そこでよく知られているのは、イエズス会のフランシスコ・ザビエルによる日本への布教です。一般的には、日本のキリスト教の伝来は、このフランシスコ・ザビエルによる布教であるといわれています。
(イエズス会の創設とヨーロッパでの活動については、前シリーズの第43回を是非参照して下さい)
 1541年、インドのゴアに赴いたフランシスコ・ザビエルはそこでアジア布教の足掛りを作ります。日本には1549年に到着、2年間の滞在で精力的な布教活動に取り組みました。ちなみに、この頃の日本はまさに戦国時代の真っ只中でした。
 フランシスコ・ザビエルの日本への布教の成果は大きく、多くの日本人がキリスト教を信仰するきっかけとなりました。そこでは、日本の伝統や文化に対して排他的な立場を取ることなく、それらを尊重しつつ布教活動に励んだことが、その成果に結び付いたといわれています。
 しかし、その後は宣教師たちへの迫害による処刑や追放、さらにキリスト教そのものへの厳しい弾圧などにより、その発展は妨げられてしまうこととなります。
 キリスト教史・教会史の日本編では、まず、イエズス会の布教活動について詳しく学びたいと思います。その後は、戦国時代以降安土桃山時代まで、さらに江戸時代を経て、明治から大正、そして昭和の順に、日本のキリスト教史・教会史を学んでいきましょう。


 
第2回
 今回は、日本のキリスト教史・教会史の上で極めて重要で意義深いとされる、イエズス会の布教活動について学んでみたいと思います。
 まず、1549年に日本に到着したイエズス会の宣教師フランシスコ・サビエルは、2年間の滞在で精力的な布教活動に取り組みました。そして日本人を「極めて優秀かつ理性的」と高く評価をしました。こうした報告を受け、その後は次々に宣教師が日本に送られ、その積極的な活動により、日本人の信徒が急増という結果をもたらせることとなりました。
 ところで、こうした日本人信徒の増加については、さまざまな要因が考えられます。優秀な宣教師たちの熱心な布教活動はもちろんですが、当時の日本の社会背景にも少なからず関係があるようです。
 ひとつは、当時の日本は他のアジア地域に見られるようなヨーロッパの影響、つまりは植民地支配からは無縁であったという点です。従って、貿易による利点を模索していた当時の大名たちにとって、宣教師たちはひとつの情報源であり、お互いの利害が一致していたということになります。
 もうひとつは、大名たちがキリスト教に魅かれることにより、市井の人たちにとっても入信しやすい環境が整ったという点です。封建社会における権力の絶大さはいうまでもありませんが、大名たちの精神性までもが、市井の人々のなかへと入り込む、宣教師たちはそのことをしっかり見据えていたとも考えられます。
 さらには、イエズス会の方針により、日本の伝統や文化を尊重することや、日本人司祭並びに司教の養成が挙げられていたということです。日本の風土に応じた臨機応変な布教活動には、こうした明確な指針と目標が掲げられていたのです。
 次回は、豊臣秀吉とキリスト教の関係について学んでいきましょう。

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第3回
 今回は、織田信長の跡を継いだ、豊臣秀吉とキリスト教の関係について学んでみたいと思います。
 織田信長は宣教師たちに極めて好意的であったとされています。信長の後の豊臣秀吉も宣教師たちには寛大に接したことが知られていますが、1587年、バテレン追放令を発令、宣教師に対して国外へ退去することを命じました。
この突然の追放令の背景には、いくつかの原因が考えられます。そのひとつに、キリスト教の拡大による一向一揆のような反乱を秀吉が危惧したというものがあります。確かに、一向一揆は信長に対して多大な圧力を加える大きな出来事だったといえます。キリスト教が大名にまで拡大した現状を踏まえると、社会的立場の低い人たちを扇動して反乱を起こすことはありえなくはない。天下統一を目前にした秀吉がそのような事態を危惧する理由も十分理解できます。ただ、追放令発令後も、現実には秀吉はキリスト教を黙認し、迫害などは行われなかったようです。そこには、南蛮貿易という外交に積極的であった秀吉の、もうひとつの考えをうかがい知ることができると思われます。
 しかし、豊臣政権の末期において、状況は一変します。新たな修道会が日本にやって来るようになると、日本文化を尊重するイエズス会のやり方とは異なる布教により、修道会同士の対立にまで発展してしまいます。
 1596年、サン=フェリペ号事件が起こります。これをきっかけに、1597年、秀吉はフランシスコ会の宣教師を捕らえ、さらには長崎において司祭並びに信徒を処刑してしまうのです。(二十六聖人の殉教)。
 次回は、サン=フェリペ号事件の概要と、その後のキリスト教について学んでいきましょう。

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第4回
 1587年、豊臣秀吉がバテレン追放令を発令したことにより、日本での宣教師の立場は微妙なものとなります。ただし、南蛮貿易に積極的であった秀吉は、宣教師を迫害することはありませんでした。つまり豊臣政権は宣教師たちを上手く外交に利用したのです。 しかし、政権の末期において、状況は一変します。日本文化を尊重する布教とは異なるやり方の修道会の登場で、それぞれの対立にまで発展します。こうしたなか、1596年、サン=フェリペ号事件が起こります。翌年、秀吉はフランシスコ会の宣教師を捕らえ、さらには、長崎において司祭並びに信徒を処刑してしまうのです。それでは、サン=フェリペ号事件とはどのようなものであったのでしょう。その概要は次のようなものでした。
 1596年、スペインのサン=フェリペ号はマニラを出航しメキシコを目指します。ところが東シナ海で台風に遭遇し、船は四国の南沖に漂着してしまいます。その後、浦戸に曳航されたものの、今度は座礁してしまい、待機を余儀なくされます。船には船員以外に、フランシスコ会の司祭たちも乗り込んでいました。政権側の使者とのやり取りを経ていくなか、積荷だけではなく、乗組員全員の処刑が伝えられます。秀吉との直接の面会も果たせず、結局船は修繕され、マニラに向けて出航しましたが、宣教師たちは捕らえられたまま、その後処刑されることになるのです。
 この不可解な事件の背景には、様ざまな説があり、現在のところ定説といわれるものを見出すことは困難です。スペイン人の領土征服説もしかり、修道会同士の対立もしかり、どれも諸説の域を出ることはありません。
 こうした秀吉のキリスト教迫害へのより、宣教師たちの立場はますます追い込まれていくことになります。そして、次期徳川政権の政策により、ついにキリスト教は本格的な迫害の時代へと入っていってしまうのです。
 次回は、江戸時代のキリスト教に目を向けていきましょう。

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第5回
 豊臣政権崩壊の後、次に実権を握った徳川家康は、スペイン人宣教師に教会建設の許可を与えるなど、当初はキリスト教を黙認していました。次の将軍秀忠も、外国人の宣教師に対して、布教の許可を与えるなど、家康と同じくキリスト教への黙認を続けていました。
 ところが、1612年に起こった岡本大八事件で状況は一変します。概要がキリシタンが関係した疑獄事件であったことから、これを機に幕府はキリスト教への態度を硬化させてしまいます。そして間もなく、キリスト教信仰の禁止が明文化され、約250年もの間、全国規模の迫害が行われるようになるのです。
 さらに追い打ちをかける出来事が起こります。1637年の島原の乱です。島原と天草で百姓たち約3万人が蜂起したとされるこの事件は、幕府に大きな衝撃を与えました。百姓たちの結束力の背景には、キリスト教信仰が強くあったものとされるこの事件、幕府は「キリシタンによる幕府への反乱」と位置づけ、1639年には寛永の鎖国令を発布、ポルトガル船の来航を禁止します。さらに、キリスト教布教とは無関係のオランダについても、商館を平戸から長崎の出島へ移転させてしまいます。こうして長い間、日本はキリスト教の発展のみならず、世界から大きく立ち遅れるという歴史を歩むことになったのです。
 その間、キリシタンたちは自らの信仰を守るために、隠れキリシタンとして潜伏します。表面的には仏教徒として、しかし実際上はキリスト信者として、生活を続けていきました。
 次回は、幕末から明治時代のキリスト教に目を向けていきましょう。

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第6回
 長い鎖国の後、黒船来航をきっかけに、日本は再び海外との交流を始めることとなります。さらには、アメリカやフランスとの通商条約締結により、数多くの宣教師たちもまた再び日本の土を踏むこととなったのです。
 1865年、厳しい禁教の下で堅く信仰を守り続けた日本人数人が、建堂間もない長崎の大浦天主堂を訪れ、自らが隠れキリシタンであったことを告白します。その後は多くの信徒がカトリック教会への復帰を果たし、司祭の指導を仰ぐようになりました。プロテスタントの宣教師たちも、それぞれのグループごとに、上流階級や中流階級の人たちを中心に対する伝道を進めていきました。こうした流れの中で、岩倉使節団による欧米視察が行われ、そこでキリスト教の解禁という要求がなされます。欧米化の真っ只中、未だ禁教を継続したままの明治政府は、1873年、ようやくキリスト教禁止令を解いたのでした。

 その後、時代は軍国主義へと突入していきます。神道は軍国主義イデオロギーに利用され、それはまた逆にキリスト教への圧力へとなり、次第に強化されていきました。日本のキリスト教は、戦争に対して賛成か反対かを迫られ、教会と信徒を守るために、カトリック教会やプロテスタントの各団体教派は、まさに苦渋の決断を余儀なくされたのでした。

 1945年の終戦、そして1946年の日本国憲法によって「信教の自由」が認められたことで、日本のキリスト教は新たな時代における新たな局面を迎えることとなりました。
 現在、日本でのキリスト教信徒は、総人口の約1%程度であるといわれています。一方で、教育や医療などにおいて、日本人の生活とキリスト教は直接的あるいは間接的に結び付いているという現状があります。クリスマスという行事を通してキリスト教を知るという機会もあるでしょう。キリスト教に興味を持つ人たちも数多くいるものと思われます。
 キリスト教は自らを問う宗教です。自らに問い続けるためにある宗教であるといっても過言ではないでしょう。「私とは」「生きるとは」「死とは」など、それらの問いは永続的なものがほとんどです。それらの問いの突破口となりうるもの、それこそが聖書なのです。

 神様からの豊かな恵みと平安が全ての人にもたらされますようにお祈り致します。(了)

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